春正月 恩赦と風俗の刷新
- 正月丙申、詔が下り、天下の獄につながれた者のうち死罪にあたらない者は罪を問わないこととした。
- このころ国内はようやく落ち着き、民は休息を得た。役人はその職務に安んじ、農耕と養蚕が奨励され、気風はおだやかにそろい、人々は自ら身を慎むようになった。
- 光武帝は王莽の時代の見せかけだけの薄っぺらな教化を思い返し、その弊害を改めようとした。うわべの華やかさを退けて素朴さを取り立て、発言を聞いたうえで実際の行いを見、実績によって試した。その結果、名目と実質が食い違わなくなり、有能か否かがはっきり分かれた。
薄葬の詔
- 帝は前代の陵墓が過度に壮麗で、王侯や役人・民までが競って真似ていることを憂え、詔を下した。
- 詔の趣旨は、世間では葬礼の厚薄を恥の基準にしてしまい、富める者は度を越した贅沢に走り、貧しい者は財産を使い果たす、刑罰でも禁じられず礼儀でも止められない、動乱を経てはじめてその過ちが分かった、というもの。天下に布告して、忠臣・孝子が薄葬によって死者を送る意義を知らしめよと命じた。
正月晦の日食と上言の求め
- 正月癸亥の晦、日食があった。詔では、陰陽が狂って日月が欠けるのは民の過失ではなく天子ひとりの責任であるとして、天下に赦を行った。
- あわせて公卿以下すべての官に、はばかることなく封事(密封の上奏)を差し出すよう命じ、賢良・方正の士を各一名ずつ推挙させた。
- これを受けて馮衍が上書し、八箇条を献策した。文徳を顕彰すること、武功をたたえること、旧来の功績を修めること、俊傑を招くこと、好悪を明らかにすること、法令を簡略にすること、俸禄に等差をつけること、辺境を安撫すること、の八つである。帝は召見しようとしたが、讒言によって馮衍は参内できなかった。
史論(袁宏曰・讒言)
- 讒言の害は天下の患いである。暗愚な君主のもとで讒が横行するのは当然として、賢明な君主のもとでも讒言が絶えないのは嘆かわしい。
- 君主の心情は外に表れずにはいられない。好悪や是非の感情が表に出れば、それに応じて愛憎・毀誉が事にはたらく。讒者は君主の好むものに乗じて人を推し、憎むものに乗じて人を退け、君主が是とするものを美化し、非とするものをそしる。しかも疑われようのない場所から仕掛けるので君主は気づかない。そこが讒者のつけ入る資本である。
- 讒者の狙いは特定の相手を傷つけることだけではない。忠信をもって身を処さないため、その言葉全体が害をもたらす。君主の心情に合わせようとすれば君主の欲するところを探るほかなく、憎まれるのは一人でも、害を受けるのは万物に及ぶ。
- 声色・喜怒のわずかな動き、虚実・利害のはざまに乗じて売り込まれる言葉は数えきれない。ゆえに古の明君は、自分の見聞が外物に左右されざるを得ないこと、自分ひとりの明察が感情に滞りがちであることを知り、忠信の人を身近に置いた。そうすれば好悪是非の情が外に漏れず、愛憎毀誉の言葉が入り込む道もなくなる。
二月の日食と鄭興の上疏
- 二月癸亥の晦にも日食があった。当時、宰相の人事は軍功によることが多く、任用も昔からの縁故に流れていた。一方で天子は官吏の統率と風俗の矯正に励み、そのやり方はやや厳しく峻酷に傾いていた。この天変を機に太中大夫鄭興が上疏した。
- 鄭興の論旨は、国に正しい政治がなく善人を用いなければ日月の異変という譴責を受ける、政治は慎まねばならない、要点は人を選ぶこと・民に因ること・時に従うことの三つである、というもの。
- 例として、堯が洪水の治水者を求めたとき四嶽が鯀を挙げ、堯は鯀が不適と知りながら自分の判断を曲げて四嶽の推挙に従った故事、斉の桓公が莒に亡命した際に従った鮑叔が帰国後に管仲を推挙し桓公がこれに従って九合の覇業を成した故事、晋の文公が翟に亡命し帰国後に元帥を選ぶにあたって趙衰が郄縠を挙げ、礼楽に通じ詩書に厚い郄縠を中軍の将としたため城濮で楚を破り天子を王城に迎えた故事を引く。
- そのうえで、今は大臣の職に欠員が出るたび朝議がすぐ功臣を候補にする、功臣ばかり用いれば鮑叔や趙衰のような推挙は絶えてしまうと述べ、陛下は上は陶唐(堯)に、下は斉・晋に学び、自分を屈して衆議に従う徳を成し、群臣が善人を挙げる美風を助けよと説いた。
- さらに、上に立つ者が聡明を尽くしすぎれば下は罪を恐れる、日は君の象、月は臣の象であり、君の威が高圧的に急であれば臣の立場は追い詰められる、と述べ、寛恕を心がけ柔よく剛を制する徳を尊ぶよう願った。この進言は容れられなかった。
鄭興の経歴
- 鄭興は字を少贛といい、河南開封の人。かつて劉歆に学んで講義を行い、劉歆はその才を高く評価し、学者はみな彼を師とした。
- 涼州に赴いたが事件に連座して免職。赤眉の乱で東への道が通じなくなり、隗囂のもとに身を寄せた。隗囂が漢に二心を抱くたび、鄭興は懇切に諫めた。隗囂は内心不快でも表面では礼遇した。
- 鄭興が父母を葬るため帰郷を願い出ると隗囂は許さず、かえって住居を移し俸禄を増した。鄭興は隗囂に、かつて同僚だったから骨を返してほしいと願ったのであって用いられることを求めたのではない、亡き父母のためであると述べ、生前は礼をもって仕え死後は礼をもって葬り祭るのが親に事える道だ、父母のために身を乞うたのに俸禄が増えただけで終わるのでは父母をだしに願い出たことになり、無礼きわまる、将軍はそのような者を用いて何になるのか、と迫った。隗囂は納得して旅装を整え、妻子ともども送り出した。
- 帰還を聞いた帝は召して太中大夫とした。光禄勲杜林が上書して、義を堅持し詩書に厚く古を好んで博識、疑わしい事にも惑わされない人物であり側近に置けば大いに益がある、と推薦した。以後、朝廷で大きな議論があるたび鄭興に諮問された。
- 帝が郊祀の件について、讖(予言書)で決めてはどうかと問うと、鄭興は「臣は讖をやりません」と答えた。帝が怒って「讖を語らないのは讖を否定するのか」と問うと、鄭興は「臣は学んでいない書があるというだけで、否定するつもりはありません」と答え、帝の怒りは解けた。帝は「そう言えばよかったのだ」と述べた。
- 鄭興はしばしば政事を論じ、その文辞は温雅だったが、意向に沿わず讖にも通じなかったため、側近として重用されることはなかった。
鄭衆の節操
- 鄭興の子の鄭衆は才学で名を知られた。のちに皇太子と山陽王が虎賁将梁松を仲立ちに束帛を贈って鄭衆を招こうとした。
- 鄭衆は梁松に、太子は世継ぎであって外部と私的に交わる筋合いはなく、漢の旧制でも藩王は賓客と私的に通じてはならないと述べ、辞退した。梁松が「目上の意向には逆らえない」と言うと、鄭衆は禁を犯して罪を得るより正道を守って死ぬほうがましだと答えた。
- 太子と山陽王はこれを聞いて感心し、無理強いしなかった。のちに梁氏が失脚したとき賓客の多くが連座したが、鄭衆は累に染まらなかった。
夏から秋 馮異、栒邑に勝つ
- 夏五月、前将軍李通を大司空とした。
- 秋、隗囂が歩騎三万を派遣して三輔を侵した。耿弇が数百騎を出して戦ったが破られた。
- 隗囂の将が兵を分けて栒邑を取ろうとしたので、馮異はこれを聞くと急行してその城を押さえた。諸将は敵が勝ちに乗じており正面から争うべきでないと反対したが、馮異は、敵に栒邑を取られれば三輔全体が動揺する、攻める側は兵力が足りず守る側は余裕がある、先に栒邑を押さえて楽に待ち受けるのは正面から鋒を争うのとは違う、と説いた。
- 馮異は栒邑に入って城門を閉じ、旗も太鼓も伏せた。事情を知らない隗囂の将がそのまま攻めてくると、太鼓を打ち旗を立てて隊列を組んで打って出た。敵軍は混乱して逃げ、馮異は数十里追撃して大破した。これにより北地の諸豪族の頭目が相次いで降伏した。
- 諸将の多くが自分の功を言い立てるなか、馮異ひとりは黙っていた。帝は璽書を送って労い、栒邑は孤立して危うく陥落寸前だったのに諸将は迷って誰も動かず、将軍だけが決断して奇策で敵を打ち砕いた、その功は山のようであるのになお足りないと思っている、譲った孟反にも劣らない、と述べた。
- あわせて太中大夫を派遣し、医薬と葬送の道具を将兵に賜り、死傷者には大司馬以下が自ら弔問して謙譲の徳を尊ぶようにさせた。三軍の将兵はみな感激し喜んだ。
史論(袁宏曰・謙譲)
- 「謙は尊くして光る」とはまことである。馮異が功を譲ったことで三軍がその恩恵を受けた。楊朱は、賢い行いをしながら自ら賢しとする心を捨てれば、どこへ行っても美しくないことはないと言った。
- 聖人では唐虞、賢者では顔回に及ぶ者はないが、『虞書』は徳を数え上げるにあたって「克譲」を筆頭に置き、孔子は顔回の仁を「伐らず(誇らない)」ことを先に挙げて称えた。逆に郄至は自分の善を誇って首を落とし、処父は人の上に立とうとして一族を失った。すなわち謙譲・不伐は聖賢の最上の美徳であり、自らの善を誇り人の上に立とうとするのは小人の悪しき行いである。
- 『司馬法』にも、誇らなければ求めず、求めなければ争わず、争わなければ互いに覆い隠さない、とある。民が和し、下が順い、功が成り、名が立つのは、みな譲ることを好んで自ら賢しとしないからである。
- 君主は才能を量って官を授け、善悪を比べて毀誉を加え、功過を評価して賞罰を下す。ところが士が自ら賢しとすれば自分を高く見積もるので、官職が才能に見合っていてもそれを卑しいと思う。功を誇れば過ちを覆い隠すので、賞が事に見合っていても薄いと思う。善を誇れば自分の悪を忘れるので、名誉が実名に見合っていても少ないと思う。かくして怨みが心に宿り、不満が顔色に出る。誇る士・自ら賢しとする人が薄っぺらとされ、先王が強く憎んだ理由である。
- 君子はそうではない。労苦しても誇らず、施しても恩に着せず、恭しくして徳を保ち、人にへりくだって功を隠す。汚れ役を避けず、卑官も辞さず、ただ任に堪えないこと・力の及ばぬことだけを恐れる。だから力に余裕が生まれ知恵が尽きず、身は咎めや後悔から遠ざかり、行いが成って名が立つ。
- 天の道は満ちたものを損ない鬼神は謙る者に福を与える。血気ある者には必ず争う心があり、功の高い者には自ら誇るという非難が起こる。だからこそ宋の正考父は任命のたびに身をかがめ、晋の士燮は戦功がありながら最後に帰り、孟側は殿軍を務めながら馬に鞭打って「遅れたのではない」と言い、三卿が敵を謀ったとき冉有は答えなかった。身をかがめ跡を隠すことがそこまで徹底しているのは、民が上に立つ者を嫌うこと、衆人の目はごまかせないことをよく知っているからである。
- 旅館の妾のたとえがある。醜い妾は自分を醜いと思っているので主人はその醜さを忘れて重んじ、美しい妾は自分を美しいと思っているので主人はその美しさを忘れて軽んじた。容色の美醜は妾の顔に定まっているのに、美醜の評価は主人の心で変わる。まして君子たる者が、善行があっても意識せず、過ちがあっても忘れないとすればなおさらである。その美徳はさらに大きい。ゆえに揚子の言葉は師とするに足り、旅館の妾の話は戒めとするに足る。