春正月 来歙、略陽を奪う
- 正月、来歙が陽城から二千人を率い、山を切り開いて道を通し、一気に略陽に達して隗囂の将金梁らを急襲して殺し、そのままその城を確保した。
- 帝はこれを聞いて非常に喜んだ。側近は、大敵を何度も破ってきた帝が小城ひとつでこれほど喜ぶのを不審に思った。帝は、略陽は隗囂の要害であり、腹心が壊れれば手足を制することができるからだと説明した。
- これ以前、呉漢ら諸将は長安にいたが、金梁が守りを固めていたため隴に上れなかった。金梁が死に来歙が略陽を押さえると、諸将は先を争って駆けつけた。
- 帝は、隗囂は頼みの綱を失い要衝の城を奪われたのだから必ず精鋭を挙げて攻め寄せる、長期の包囲で城が落ちず兵が疲弊したところを衝けばよいと考え、呉漢らをいったん引き返させた。
- 果たして隗囂は自ら数万を率いて略陽を攻め、水をせき止めて城に注ぎ、昼夜攻め立てた。来歙は将兵を励まして一致団結し、数か月固守して落ちず、隗囂軍は疲弊した。
夏閏四月 帝の西征と隗囂の潰滅
- 閏四月、帝は西征して漆に至った。議論する者は、天子が険地に入るべきではなく、まず諸将を出して敵情を探るべきだと主張し、方針が決まらなかった。
- そこへ馬援が夜に到着し、隗囂の軍は瓦解しており進めば必ず破れると進言した。馬援は米を積み上げて山谷の地形を作り、帝の前で味方の軍が入るべき道筋を指し示した。帝は笑って「敵はもう我が目の中にある」と述べ、車駕はそのまま進んだ。
- 竇融が五郡の太守とともに歩騎数万・輜重五千両を率い、第一で帝と合流した。帝は酒宴を設けて竇融らを引見し、特別の礼で遇した。
- 隗囂の軍は総崩れとなり、城邑はみな降伏した。隗囂は妻子とともに西州に立てこもり、呉漢と岑彭が兵を率いて追い、包囲して押さえた。隗囂の将王元は蜀に逃げ込んだ。
竇融らへの封爵
- 帝は竇融の功を嘉して四県をもって安豊侯に封じ、弟の竇友を顕親侯とした。
- 続いて竺曾を助義侯、梁統を帰義侯、史苞を褒義侯、厙均を輔義侯、辛肜を扶義侯に封じ、いずれも西方へ帰らせた。
- 竇融兄弟はそろって爵位を受け、長らく一方面を任されてきたため、かえって不安になり、たびたび上書して交代を願い出たが、帝は許さなかった。
蜀の動揺と公孫述
- 蜀の人々は隗囂の敗北を聞いて動揺した。成都の郭外には秦代からの古い倉があり、王莽以来ずっと空だった。公孫述は人を使って「古倉が穀物を出し、山のように積み上がっている」と偽らせた。民は市場を空にして見物に押しかけた。
- 公孫述は百官を集めて「古倉は本当に穀物を出したのか」と問い、「ありません」と答えさせたうえで、「隗王が敗れたという噂も同じことだ」と述べた。こうして人心を鎮めようとしたのである。
荊邯の献策
- 蜀人の荊邯が公孫述に説いた。兵は帝王の大器であり古今廃することのできぬものである、と前置きしたうえで、次のように論じた。
- 秦が政を失って豪傑が並び立ったとき、漢の高祖には先人の遺産も立錐の地もなく、行伍の間から身を起こして項羽と戦い、大小百余の戦で軍は破れ身は窮したことも幾度かあったが、それでも止めなかった。敗れては軍を立て直し、傷が癒えればまた出撃した。前進して死んで功を成すほうが、そのまま滅びるより勝るからである。
- 隗囂は時運に恵まれて雍州を割拠し、兵は強く士は付き従い、威勢は山東にまで及んだ。当時、漢の更始政権は天下を失い、人心は四方に離れて瓦解していた。その好機に天命を争わず、退いて西伯(文王)のまねごとをし、師を尊んで章句を学び、処士を賓客の友とし、武を収めて兵を休め、へりくだって漢に仕え、自ら文王の再来だと悦に入っていた。
- 今、漢帝は西の憂いを取り除いて東征に専念し、天下を四分してその三を得ている。西州の豪傑はみな心を山東に寄せ、使者を往復させている。五分の四を得るに至れば兵を挙げて討ち、屠り潰されるだろう。天水がすでに平定されれば漢は九分の八を得たことになる。
- そうなれば陛下は梁州一州の地で内に天子の体面を保ち外に三軍を養うことになり、民は困窮して命令に堪えられず、王莽のように内部から崩れる。愚見では漢と和親すべきである。
- それができないなら、天下の期待がまだ絶えず豪傑をまだ動かせるうちに、急いで国内の精兵をすべて動員すべきである。田戎に江陵を押さえさせて江南の要衝に臨み、塁を築いて固守し、呉・楚に檄を飛ばせば長沙以南は必ずなびく。延岑を出して漢中から三輔を平定すれば、天水・隴西は手をこまねいていても手に入る。そうなれば天下は震動し、大きな利が期待できる。
- 公孫述はこの策に従おうとしたが、蜀の人々および述の兄弟が反対したため取りやめた。延岑らは何度も兵を求めて功を立てたいと願ったが、公孫述は最後まで疑って許さず、みなの恨みを買った。政権を握るのは公孫氏一族だけであった。
公孫述の統治
- 公孫述の性格は苛烈で気短く、しばしば人を誅殺し、細事にまで目を光らせた。澄んだ水を治めるようなものであった。
- 若いころ郎として漢の宮廷制度に習熟していたため、法駕・鸞旗・旄騎を用いて出入りし、儀仗を並べ陛戟を立て、輦に乗って奥から出た。
- また二人の子を王に立て、犍為・広漢の数県ずつを食邑とした。ある者が、成敗はまだ分からず将兵は野に晒されているのに愛児を王にするのは大志のなさを示すと諫めたが、公孫述は情に勝てず、結局みな王とした。
秋 潁川の平定
- 潁川で盗賊が蜂起し、都は騒然となった。
- 秋八月、帝は洛陽に帰還し、執金吾寇恂に、潁川で威信のあるお前でなければ平定できない、九卿からまた二千石に下るのも国を憂えてのことなら差し支えあるまい、と語った。
- 寇恂は、潁川の者は陛下の西征を聞いて隴・蜀がまだ平定されていないと考え、無頼の徒がすきに乗じて人を巻き込んだだけであり、陛下が自ら南面されれば臣は武器を執って先陣に立ち、賊は恐れて降伏するでしょう、と答えた。
- その日のうちに車駕は南に向かい、潁川に着くと盗賊はことごとく降伏した。民は道をふさいで「陛下、寇君をもう一年お貸しください」と願い出た。帝は寇恂を潁川に留めて官民を安撫させ、残る降伏者を受け入れさせた。
冬 隗囂の脱出と東方の盗賊
- 冬十一月、公孫述の将が隗囂を救おうと高所から急に襲来し、漢軍が陣を整える前に隗囂は脱出して冀に入った。漢軍は兵糧が尽き、呉漢と岑彭は輜重を焼いて長安に引き揚げた。天水の諸県は再び離反して隗囂についた。
- 十二月、高句麗王が使者を送って貢物を奉った。
- 東郡・済陰で盗賊が蜂起し、大司空李通と横野将軍王常が水軍を率いて討伐した。帝は耿純の威信が衛の地で高いことから、耿純を太中大夫として東郡で軍と合流させた。東郡では耿純が境内に入ったと聞いただけで盗賊九千余人が降伏し、軍は戦わずして帰還した。璽書によって耿純は再び東郡太守となった。