後漢紀巻第五 光武皇帝 建武六年 30年

春正月 章陵と東方の完全平定

  • 正月丙辰、舂陵を章陵と改め、豊・沛に準じて課役を免除した。
  • 劉隆らが舒城を破り、李憲を斬った。
  • 二月、呉漢が朐城を落とし、董憲と龐萌は逃れ出たが、漢はその妻子を捕えた。憲は涙を流して部下に、妻子はみな捕えられた、長らく諸公を苦しめてきた、と謝し、十余騎を率いて間道から帝のもとへ降ろうとしたが、追撃の兵に追いつかれて皆斬られた。
  • こうして天下はおおむね定まり、残るは隴と蜀だけとなった。帝は諸将を洛陽で休養させ、軍士を河内に分け置き、しばしば酒宴を開いて諸将に賞賜を与えた。
  • 郡国に行幸するたび父老や掾吏に会って数十年来の出来事を尋ねたので、吏民はみな驚き喜び、自分は帝に知られていると思ってそれぞれ力を尽くした。
  • もともと軍旅の間は賊についての檄が日に百件も届いたが、帝はなお余暇に経書を講じ読み、河図・洛書や讖記の文に至るまで見尽くさぬものはなかった。

王元の献策と隗囂の二心

  • 王元が隗囂に説いた。天下の成敗はまだ分からない。天水は無傷で富み、士馬は最強である。北に西河を取り、東に関中を収め、秦の旧跡に拠れば河山が表裏をなす。元が一丸の泥をもって大王のために東の函谷関を封じよう。これは万世に一度の好機である。それができぬとしても、士馬を養い険阻に拠って自守し、日を重ねて四方の変化を待てばよい。王たるを図って成らずとも、その残りで霸たるには足りる。要するに魚は泉を離れてはならぬ。ひとたび権柄を失えば、神龍もミミズと変わらなくなる。
  • 以前、更始は長安に都して四方が呼応し、真の主だと思われたが、一朝にして崩れ去った。大王もほとんど拠るところがなくなる。いま南に公孫、北に文伯があり、江湖や海浜には王公が十数人いる。それなのに儒生の言を信じて千乗の基を棄て、危うい国に身を寄せて安全を求めるのは、覆った車の轍を辿るようなもので採ってはならぬ計だ、と。囂は心中これに同意した。
  • 当時、公孫述が兵を江関に出して南郡を破った。帝はこれを機に天水から蜀を伐とうと考えた。褒斜や江関の路は遠く険阻が多いので、西州から便に乗じて挙げるほうがよく、そうすれば兵は強く財は富む、というのである。
  • 囂は子を入侍させながらも二心を抱き、常に王元の言を思って一方に拠ろうとし、早く決着することを望まなかった。そこで改めて上書し、蜀道の危険や桟道の崩壊断絶を盛んに述べ、丈人の地は通れないと言い、また、公孫述の性質は厳酷で上下が互いに苦しんでいるから、その罪悪が十分に明らかになるのを待てば、一声呼ばわるだけで呼応する勢いになる、と述べた。

来歙の詰責と王遵の諫言

  • 来歙はもとより剛直で、囂に異心があると聞いて憤り、囂を責めた。国家は君が善悪を知り廃興に通じていると見て、自筆の書で聖意を伝えられた。すでに伯春を送り出しておきながら、また邪説惑言を用いて一族滅亡の計を採るのか。主に叛き子を裏切り、忠信に背き仁義を傷つけている。吉凶の決まるのは今日だ、と。そのまま進んで囂を刺そうとしたが、左右に兵が多かった。囂は歙を害そうとし、歙は節を持って車に乗った。囂はいよいよ怒って歙を殺そうとした。
  • 王遵が諫めた。愚かながら聞くところ、国を治める者は名と器を慎み、家を治める者は怨みを畏れ禍を重んじます。名と器をともに慎めば下は命令に服し、怨みと禍を軽んじなければ家は福を受けます。いま将軍は子を漢に人質に出しながら外に他心を抱いており、名器の上で逆らっています。その命に違ったうえ、さらにその使者を殺せば、怨みと禍を軽んじることになります。
  • 古の列国は兵を交えても使者を絶ちませんでした。兵を重んじ和を貴んで戦に頼らぬためです。春秋伝にも、兵を交えても使を通わせてよい、とあります。まして王命を持つ者を、質を出しながら犯すとは。上は正義に合わず、内は長い目で見た利にかなわず、かりそめに盗賊の拙い策を行って、どうして是非を見分けられましょう。
  • 加えて伯春はすでに身を朝廷に委ねているのに、漢の使者を屠るのは、罠を踏み剣を試して自分の首に刃を差し出すようなものです。君叔は単身の身とはいえ陛下の外兄です。これを屠っても漢の損にはならず、続いて一族が滅びるだけです。昔、宋が楚の使者を捕えたために子を交換して食う禍を招きました。小国ですら辱められないのです。まして万乗の主においてをや、と。
  • 来歙は与党が西州に多く、助けが一人ではなかったので、ついに難を免れた。王遵もまた豪傑の士で、やがて漢に降り、上雒侯に封ぜられた。

班彪と隗囂の問答

  • 以前、隗囂が班彪に問うた。昔、周が亡んで戦国が並び争い、天下は分裂し、数世を経てようやく定まった。思うに、縦横の事がまた今日に起こるのか、それとも運を承けて交互に興るのが一人に帰するのか。先生の論を聞きたい、と。
  • 彪は答えた。周の興廃は漢とは異なります。周は爵を五等に立て、諸侯が政に与りました。根本が弱く枝葉が強大になったので、その末流に縦横の事が起こったのです。勢いがそうさせたのです。漢家は秦の制を承け、郡県で民を治め、臣に百年の権柄はありません。成帝が外戚に権を貸し、哀帝・平帝は短命で国嗣が三度絶えました。危機は上から起こり、傷は下に及びませんでした。ゆえに王氏の権勢は朝廷を傾け専らにし、号位を盗むことはできても民に根を張れませんでした。だから真に即位した後、天下は皆首を伸ばして漢を思ったのです。
  • 十余年の間、天下は内外に騒擾し、遠近ともに兵を起こし、偽の号を称する者が雲のように集まりましたが、いずれも劉氏を称し、示し合わせずして言葉が同じでした。いま雄傑で州や城に跨る者はいずれも七国のような世襲の資を持ちません。詩に「皇なるかな上帝、下に臨みて赫たり、四方を監視して民の瘼を求む」とあります。いま民が謳って漢を思い劉氏を仰いでいることは、すでに明らかです、と。
  • 囂は言った。先生の周と漢の勢についての言はよい。しかし、愚民が劉氏の姓号を見慣れているのを見て漢家が復興すると言うのは疎漏だ。昔、秦がその鹿を失い、劉季が追って得た。そのとき民は漢を知っていたか、と。

班彪『王命論』

  • 彪は囂の言に思うところがあり、また狂気じみた奸智が止まないのを憐れんで、『王命論』を著し、時世の難を救おうとした。
  • 昔、帝堯の禅譲に「咨、爾舜、天の暦数は爾の躬に在り」とあり、舜もまた同じ言葉で禹に命じた。稷や契に至るまで皆唐堯を輔けて四海を輝かせ、代々徳を重ね、湯・武に至って天下を有した。時代が異なり、禅譲と放伐の別があっても、天に応じ民に順うという点では一つである。
  • ゆえに劉氏は堯の祚を承け、その氏族の系譜は春秋に見える。唐は火徳に拠り、漢がこれを継いだ。沛の沢に起こったとき神母が夜に泣いて赤帝の符を明らかにした。
  • これから言えば、帝王の祚には必ず明聖顕懿の徳と、豊かな功・厚い利を積み重ねた業があり、そのうえで真心が神明に通じ、恵沢が民に及ぶ。だからこそ鬼神に福され、天下に帰されるのだ。運の世に根本がなく功徳も記されないのに、この位に躍り出た者は見たことがない。
  • 世俗は高祖が布衣から興ったのを見て、その理由を理解せず、たまたま暴乱に遭って剣を振るえただけだと考える。遊説の士は天下を鹿狩りに喩え、素早い者が幸運に得るのだと言う。神器には天命があり、智力で求められるものではないことを知らないのだ。悲しいことに、世が乱れて乱臣賊子が多いのはこのためである。
  • このような者は天道に暗いだけでなく、人事にも目が届いていない。飢饉に流離し、寒さの中を彷徨う者は、粗末な着物や一担・一石の蓄えを願うだけで、その望みは金一つにも及ばない。それでも溝壑に転がって死ぬのを免れない。なぜか。貧窮にもまた命があるからだ。まして天子の貴さ、四海の富、神明の祚を、みだりに得られようか。
  • ゆえに、困難な機会に乗じて権柄を盗み、韓信・黥布のように勇があり、項梁・項籍のように強く、王莽のように成功しても、結局は釜ゆでの汁を濃くし、斧の台に伏して煮られ、身を裂かれた。まして彼らに遠く及ばぬ小者が天位を犯そうとするとは。
  • だから鈍く足の悪い馬は千里の路を走れず、燕や雀の類は大鳥の翼を奮えず、小さな柱や梁の材は棟梁の任に堪えず、器量の小さい者は帝王の重きを担えない。易に「鼎、足を折り、公の餗を覆す」とあるのは、その任に堪えぬことを言う。
  • 秦の末、豪傑が陳嬰を推して王としようとしたが、その母が止めて言った。私がお前の家の嫁になって以来、家は代々貧賤だった。今にわかに富貴になるのは不吉だ。兵を人に属させたほうがよい。事が成れば少しは利を受け、成らなければ禍は他に帰する、と。嬰はその言に従い、陳氏は無事であった。
  • 王陵の母もまた項氏が必ず亡び劉氏が興ることを見抜いた。当時、陵は漢の将で母は楚に捕えられていた。漢の使者が来ると陵の母は会って言った。わが子に伝えてほしい、漢王は長者であり必ず天下を得る、慎んでこれに仕え二心を持つな、と。そして漢の使者の前で剣に伏し、国事に励むよう促した。その後、果たして天下は漢に定まり、陵は宰相となり侯に封ぜられた。
  • 一介の女性の明察ですら、事理の帰趨を推し、禍福の機を探り、宗祀を永久に全うし、その名を春秋に垂れることができた。まして大丈夫の事業においては言うまでもない。
  • ゆえに窮達には命があり、吉凶は人による。陳嬰の母は廃を知り、王陵の母は興を知った。この二つを見極めれば、帝王の分は明らかに決する。
  • おおよそ高祖について、その興起には五つの理由がある。一に帝堯の後裔であること、二に容貌に多くの奇異があること、三に神武に徴応があること、四に寛明で仁恕であること、五に人を知って善く任用したことである。
  • 加えて、誠実で謀を好み、人の言をよく聴き入れ、善を見ては及ばぬかのようにし、人を用いるのに自分のことのようにし、諫めに従うこと流れに順うがごとく、時に赴くこと響きが起こるがごとくであった。食事中に口中の物を吐き出して張子房の策を容れ、足を洗うのをやめて酈生の説に礼をした。戍卒の言を悟って故郷を懐かしむ情を断ち、四皓の名を尊んで肌身の愛を割いた。韓信を行陣の中から抜擢し、陳平を亡命の身から収めた。英雄が力を尽くし、あらゆる策が挙がった。これが高祖の大略であり、帝業を成した所以である。
  • また霊瑞や符応についても略述できる。初め劉媪が高祖を身ごもったとき神と交わる夢を見、雷電が鳴って暗くなり、龍蛇の怪異があった。長じてからも霊異が多く、常人と異なっていた。だから王武は感じるところあって証文を折り、呂公は容貌を見て娘を与えた。秦の始皇は東遊してその気を鎮めようとし、呂后は雲を望んでその居場所を知った。初めて命を受けるときは白蛇を斬り、西して関に入るときは五星が集まった。ゆえに淮陰侯や留侯はこれを天授であって人力ではないと言った。
  • 古今の得失を歴観し、行われた事の成敗を検証し、帝王の世運を考え、この五つの意味を考えるに、進退がこの位にふさわしくなく、符応がこの度量に合わないのに、権勢と利に目がくらんで序を越えみだりに拠り、外は力を量らず内は命を知らぬ者は、必ず家を保つ主を失い、天寿を失い、足を折る凶に遭い、斧鉞の誅に伏することになる。
  • 英雄がまことにこれを覚り、禍の戒めを畏れ、遠く見通し深く識り、王陵・陳嬰の母の明察を取り入れ、韓信・黥布のような望みを絶ち、鹿を逐うという盲説を退け、神器には授かる者があると見極めて、望むべからざるものを貪らず、二人の母に笑われぬようにすれば、福祚は子孫に流れ、天禄は永く全うされるだろう。
  • 囂は悟らなかった。彪はそこで河西に移り、大将軍の竇融が意見を求めた。

班彪の家系

  • 彪は字を叔皮、右扶風安陵の人。成帝の時、彪の叔母が婕妤となり、諸父や兄弟は当世に貴んじられた。父の稚は王莽のとき広平太守であった。莽が摂政して文飾によって太平を装おうとし、使者を分けて風俗を視察させ頌める声を採らせたが、稚は何も上げず、弾劾されて延陵園郎に落とされた。これによって班氏は莽の朝廷で顕れなかった。
  • 彪は幼くして学を好み、家には賜わった書があり、財力も十分で、古を好む士や父の同輩である揚子雲以下、その門を訪れぬ者はなかった。二十歳のとき天下が乱れ、西州に難を避けた。

竇融の書簡

  • 隗囂が漢に背こうとしたとき、竇融が書を送って責めた。将軍は苦難のときに当たり、不利の時に乗じながら本朝に仕え、身を国に委ねられました。忠孝は周公・霍光に冠たり、徳と譲は呉の季札に匹敵します。融らが高い義に服して手足となりたいと願った所以です。それを一時の忿りのために節を改め図を変え、百年かけて積んだものを一朝にして毀すとは、惜しくないでしょうか。おそらくは執事の者が功を貪って謀を建て、ここに至ったのでしょう。融はひそかにこれを痛みます。
  • 融は聞いております、智者は衆を危うくして事を挙げず、仁者は義に背いて利を求めぬと。初め本朝に仕えて首を垂れ北面したのは忠臣の節です。伯春を送るとき涙を流したのは慈父の恩です。それをたちまち裏切って、部下には何と言い、留めてきた子には何と言うのですか。
  • 挙兵以来、互いに攻撃し合って城郭はみな丘墟となり、生民は溝壑に転がりました。いま生き残っているのは刃を免れた者か流亡した孤児です。傷ついた体はまだ癒えず、泣く声はまだ絶えません。幸いに天運が少し戻ってきたのに、大将軍がまたその難を重ねようとしています。これでは傷は癒えきらず、幼い孤児がふたたび流離することになります。凡人ですら涙を流すのに、まして仁者においてをや。将軍よ、よく省察されたい、と。
  • 囂は聞き入れなかった。融は五郡の太守とともに出兵の期日を請い、世祖はこれを嘉した。

夏四月 隴道への進撃

  • 夏四月、帝が長安に行幸して園陵に謁した。諸将は、囂に期限を延ばし、その将帥に爵を約束してその謀を分散させようと議した。祭遵は、囂の奸計は久しいものです、いま兵を控えて日を延ばせばその謀はいっそう深くなり、公孫は奸謀を固めます、このまま進撃するに如くはありません、と述べ、帝はこれに従った。
  • 呉漢・耿弇ら諸将を遣わして隴道から蜀を撃たせたが、隗囂は王元に隴坻を守らせ、樹木を伐って隴道を塞いだ。諸将は戦って不利となり、三輔に引き返して駐屯した。

馬援の上書と西征の布陣

  • 馬援が上書して述べた。援が思いますに、陛下にお仕えするに当たり、もとより三公の推薦も側近の助けもありません。臣が自ら申し上げなければ、陛下は何によってお聞きになれましょう。ですから臣は避けず、盲人の言をもって死を冒して誠を述べます。
  • 臣は囂とかつて知交でした。いま来歙への書を見ると、深く臣を怨んでおります。臣自身は囂に負うところがないと考えます。臣を東に遣わすとき囂は臣に言いました、自分は北面して臣と称し、加えてもともと漢のために働こうと思っている、足下は行ってその政を観よ、お前の意にかなえばそのまま専心しよう、と。臣は帰って赤心をもって報告しました。囂を善くしようとしただけで、不義に陥れようとしたのではありません。囂は自ら奸心を抱き、盗人が主人を憎むように、かえって怨みを臣に帰そうとしています。
  • 臣がこのまま退いて何も言わなければ、陛下に報いる術がありません。願わくは行在所に参上して心底をあらわにし、西州を滅ぼす術を述べ、そののち退いて田畝に就き、粗食に水を飲んで四民の職に従いたい。死んでも恨みはありません、と。
  • 帝は許す返答をした。援は東して京師に至り、囂を撃つ計を詳しく述べた。帝は大いに喜び、援に、私はまさに西して隗囂を誅そうとしている、待詔のまま志すところを果たすよう努めよ、と言った。
  • 当時、建威将軍の耿弇は漆に、征虜将軍の祭遵は汧に、征西将軍の馮異は上林に屯し、大司馬の呉漢は長安に、中郎将の来歙は諸軍を堅く統べて安民にあった。援ははじめ突騎五千を率い、諸将は議論に迷うたびに援を呼んで意見を求め、みなこれを敬い重んじた。来歙もまた援と深く親しかった。

隗囂の上疏と帝の書

  • 囂はまた上疏した。吏民は大軍が突然至ったと聞いて驚き恐れ、自ら救おうとしました。臣囂はこれを禁じられませんでした。兵に大きな利があっても臣子の節を廃するに忍びず、自ら追って引き返させました。昔、虞舜は父に仕えて、大杖なら走り小杖なら受けました。臣は不敏ながら努めぬわけにまいりません。いま臣が本朝にあって、もし恩を蒙って心を洗い改められるなら、死しても骨は朽ちません、と。
  • 有司は囂が不遜であるとしてその子の恂を誅そうとしたが、帝は忍びず、ふたたび来歙を汧に遣わして囂に書を賜った。昔、柴将軍が韓信に与えた書に、陛下は寛仁であり、亡命し叛いた者でも後に帰れば、そのつど泣いて号び、誅されることはない、とあった。だから改めて書を賜る。深く言えば不遜のようであり、略して言えば事が決しない。いま手を束ねて改めて恂の弟を朝廷に遣わせば、爵禄を全うする福がある。私は年すでに三十余、甲冑の中に十年いて、浮ついた虚辞には飽きた。その気がなければ返事するには及ばぬ、と。
  • 囂は世祖の計略が明らかであることを知り、蜀に使いを遣わして臣と称した。公孫述は囂を朔寧王とし、しばしば兵を遣わして囂を助けた。

温序の死節

  • 太原の人温序が護羌校尉となり、歩いて襄武に至ったところで囂の将である苟宇に捕えられた。宇は生きたまま降らせようとして、力を合わせれば天下を図れる、と言った。序は、国から重い任を受けた身、もとより死をもって効すべきで、義として生を貪らぬ、と答えた。
  • 宇が重ねて諭すと、序は怒って叱り、虜め、どうして漢の将を脅せるか、と言った。左右が殺そうとしたが、宇は止めて、義士が節に死のうとしている、剣を賜って自裁させよ、と言った。序は剣を受け、鬚を口にくわえて、賊に迫られた以上、鬚を土で汚させはせぬ、と嘆じ、剣に伏した。
  • 帝はこれを聞いて憐れみ、洛陽城の傍らの塚地と穀千斛・縑五百匹を賜り、序の子の寿を郎とし、のち鄒平侯の相に遷した。寿は夢に序が、長く客地にあって郷里が恋しい、と告げるのを見、ただちに官を棄てて上書し、序の遺骸を旧来の墓所に葬りたいと願い出て、詔で許された。

冬 田租の減免と馮異

  • 冬十二月癸巳、詔していわく、近ごろ軍旅がまだ解けず用度が足りないので十分の一の税を行ってきた。いまは各地で屯田も行われている。郡国の田租は旧制どおり三十分の一とせよ、と。
  • 馮異は長く関中にいて京師に帰ることを求めたが、帝は許さなかった。ある者が、馮異は関中を専制して威福を自由にし咸陽王と号している、と上書した。帝はその文書を異に示した。
  • 異は恐れ入って謝した。臣はもと一書生で、たまたま受命の機会に遭い、身に余る顧みを蒙って行伍に加えられ、大将に列し、爵は通侯となりました。一方面を任され、いささかの功はありましたが、これは皆国家の謀であって臣の及ぶところではありません。臣がひそかに思いますに、詔旨を奉じて行えば戦って勝たぬことなく、私心に従えば悔いぬことがありませんでした。陛下の見識の明らかさは、時が経つほど及びがたいものと知り、性と天道は聞くことができぬとはこのことかと思います。兵乱が起こり豪傑が競い合ったときですら、臣は動揺の中にあって分に過ぎた志はありませんでした。まして天下が平定され上下の序が定まったいまにおいてをや。まことに愚忠を謹んで守り、初めから終わりまで貫くべきです。願わくは明主に臣の素心をお知りいただきたい、と。
  • 詔していわく、将軍は国家に対して、義においては君臣、恩においては父子のごとくである。何を嫌い何を疑って懼れる気持ちを持つのか、と。
  • この冬、馮異と岑彭が京師に参内した。帝は公卿に、馮将軍は私が挙兵したときの主簿だ、と語り、中黄門に珍宝と衣服を賜らせ、詔して、あわただしい中での蕪蔞亭の豆粥、呼沱河の麦飯を忘れてはいない、と言った。
  • 異は謝して、臣は聞きます、管仲が桓公に、君は帯留めを射たことを忘れないでほしい、臣は檻車を忘れない、と言い、斉国はそれによって栄えたと。臣は陛下が父城のことを忘れられぬよう願います。そうであれば百官は恩を蒙り、天下は幸甚です、と述べた。
  • その後、異は妻子を連れて西へ遣わされた。岑彭もしばしば宴に召されて厚く賞賜され、やがて南へ戻る際、家に立ち寄って先祖の墓を祀ることを許された。詔で大長秋に朔日・望日ごとにその夫人の起居を問わせた。

諸侯の就国と耿純

  • 諸侯に封国へ赴くよう詔した。耿純は上書して、公孫述を撃ちたいと願い、また以前東郡にいたとき涿郡太守朱英の親族を誅したので、涿郡ではまことに心安からぬと述べた。そこで純を東光侯に改封した。
  • 帝は、文帝が周勃に、丞相は私の重んずる者だ、君は私のために諸侯を率いて国に就け、と言った。いまもまた同じだ、と言った。純はそこで封国に赴き、死者を弔い傷ついた者を見舞ったので、国中の人に愛された。

史論(袁宏曰)

  • 万物の営みは向かうところと捨てるところが同じでなく、なかでも愛憎と生殺はもっとも大きなものである。これを放任して一つにしなければ、乱亡の道である。ゆえに明王が号令を定めるのは、人々の心を一つにして乱亡を治めるためである。
  • いま悪を誅した臣が内心で私怨を懼れ、その弊害を顧みずに従って処遇を変えるのは、下が私情で動き法が一定しないということである。一定しなければ変化が多く、変化が多ければ害が生じる。ゆえに王者が保つべきものは、法が一定して変わらぬことにあるのではないか。

巻末

  • 靈壽侯の邳彤が薨じた。
  • 世祖は邯鄲を平定した後、任光を信都に帰らせ、あらためて陵郷侯に封じた。
  • 李忠は中水侯となり、丹陽太守に遷って治績が大いに称えられ、天下第一とされた。