後漢書卷一百十四 列女傳第七十四

総序――列女伝の趣旨

  • 詩書における女徳の重視は古くからある。賢妃が国君の政を助け、哲婦が家人の道を隆んにし、高士が清淳の風を弘め、貞女が明白の節を示す美徳は、いずれも歴史に埋もれがちである。中興以後の事績をまとめ列女篇とする。馬皇后・鄧皇后・梁皇后は既に本紀にあり、梁嫕(梁竦の女)・李姫(李固の女)はそれぞれ家伝に付されているため本篇では重複させず、才行の特に優れた者を選んで記す。

鮑宣の妻

  • 勃海の鮑宣の妻は桓氏の女、字は少君。宣が少君の父に学んだ縁で、父はその清苦に感じて娘を嫁がせたが、支度が豪華だったため宣は「私は貧賤の身、この礼には及ばぬ」と不満を述べた。妻は「父が先生の徳を見込んで娶わせた以上、夫の命に従うのみ」と答え、悉く侍女や飾りを実家に返し、粗末な布の裳に着替え、共に鹿車を挽いて帰郷、姑への礼を終えると自ら水汲みに出て婦道を尽くし、郷邦に称された。宣は哀帝の代に司隸校尉に至り、子の鮑永は中興初め魯郡太守となった。永の子の鮑昱が少君に「太夫人(祖母)は今も鹿車を挽いた頃を覚えておいでか」と尋ねると「先姑(亡き姑)の教え通り、存の時も亡を忘れず、安の時も危を忘れぬのが道、どうして忘れられようか」と答えた。

王覇の妻

  • 太原の王覇の妻は素性不明。覇は若くして高節を立て、光武帝の代、度重なる徴召にも応ぜず(覇には逸民伝あり)、妻もまた志行に優れた。覇と同郡の令狐子伯が親友だったが、子伯が楚相となり子が郡功曹となった後、子伯が子に立派な車馬で書を届けさせた際、覇の子は畑仕事の格好のまま応対し気後れしてしまった。覇はその様子に恥じ入り、帰宅後長く臥せって理由を語らずにいたが、妻が問い詰めると「子伯とは以前から差がないつもりだったが、その子の立派さに比べ我が子の粗末さを見て、父子の情のあまり我を失った」と告白した。妻は「あなたは若くして清節を立て栄禄を顧みなかった、今の子伯の富貴とあなたの高潔とどちらが優るか、なぜ志を忘れ子供のことで恥じるのか」と諭し、覇は笑って身を起こし、共に生涯隠遁を貫いた。

姜詩の妻

  • 広漢の姜詩の妻は同郡の龐盛の女。詩は母に孝を尽くし、妻もこれに篤く仕えた。母が江水を好んだため妻は遠く上流まで汲みに通ったが、ある日風で帰りが遅れ母が渇いたのを詩が咎めて妻を追い出した。妻は隣家に身を寄せ、昼夜紡績して珍味を求め隣の母に託して姑へ届け続けた。姑は不審に思い事情を知って感謝し呼び戻した。子が水汲みで溺死した際も、妻は姑の悲しみを慮って学問修行と偽り黙っていた。姑が魚膾を好んだため夫婦で働いて用意し隣の母も招いて共にした。ある時、家の側に江水と同じ味の泉が湧き、毎朝双鯉魚が出て二人の母への供物とした。赤眉の賊が里を通った際「大孝を驚かせば鬼神の祟りがある」と兵を収め、飢饉の折には米肉を贈って埋めさせ、村は安全を保った。永平3年、孝廉に察挙され顕宗(明帝)の詔で郎中に任じられ、江陽令として在任中に没し、郷人は祠を建てて祀った。

周郁の妻

  • 沛郡の周郁の妻は同郡趙孝の女、字は阿。婦道に明るかったが、夫の周郁は驕淫軽躁で無礼が多かった。舅の周偉が「賢い嫁なら夫を道で正すべき、郁が改まらぬのは嫁の過ち」と責めると、阿は拝命した上で左右に「私には樊姫・衛姫のような徳がない、諫めて聞かれねば教令を守らぬ罪となり、聞かれれば夫が父に逆らい妻に従う不孝の罪となる、これでは生きる甲斐がない」と語り自殺した。人々はこれを深く悼んだ。

曹世叔の妻(班昭)

  • 扶風の曹世叔の妻は同郡班彪の女、名は昭、字は惠班、一名は姫。博学高才で、夫の世叔(曹寿)は早世した。兄の班固が著した『漢書』のうち八表と天文志が未完のまま固が没したため、和帝は昭に東観の蔵書閣で続修を命じ完成させた。帝はしばしば昭を宮中に召し皇后や貴人に師事させ「大家(たいこ)」と号し、異物の献上があるたびに賦頌を作らせた。鄧太后の臨朝に際しては政事にも与り、その功で子の曹成を関内侯に封じ官は斉相に至った。
  • 『漢書』が世に出た当初、難解で通じる者が少なく、同郡の馬融が閣下に伏して昭から講読を受け、後に融の兄・馬続が引き続き学んで完成させた。永初年間、鄧太后の兄・大将軍鄧騭が母の喪を理由に辞職を願い出た際、太后が躊躇い昭に諮ると、昭は上疏し「謙譲の風は徳の最たるもの、伯夷叔齊は国を去ってその廉潔を天下に知らしめ、太伯も国を譲って孔子に三譲と称えられた、今、鄧騭ら四舅(騭・悝・弘・閶)が忠孝を貫いて自ら退こうとしているのに辺境未定を理由に拒めば、後に些細な過失でも生じれば、再びこの謙譲の美名を得る機会は失われよう」と説き、太后はこれに従い騭らは各々邸に帰った。
  • 昭はまた『女誡』七篇を著し婦人の教訓とした。自らを「愚暗にして先君の余寵を蒙り、母師の教えを受け14歳で曹氏に嫁ぎ40余年、戦々兢々として今なお免れたと安堵している」と述べ、才の乏しい息子を案じつつも、婚期にある娘たちが婦礼を知らぬまま嫁ぎ恥をかくことを憂い、病の床でこの書を残すとした。七篇の内容は次の通り。
  • 【卑弱】古の風習で女児を寝床の下に寝かせ瓦紡錘で遊ばせ祖先に告げるのは、その卑弱・服従・勤労・祭祀継承の徳を示すもの。謙譲恭敬・先人後己・善を誇らず悪を弁解せず、常に畏れを持つことが「卑弱にして人に下る」道である。
  • 【夫婦】夫婦の道は陰陽に配し天地の大義・人倫の大節をなす。夫が婦を御さねば威儀が廃れ、婦が夫に事えねば義理が欠ける。しかし当世の教育は男子にのみ書伝を教え、女子への教育を怠っている、これは礼が男女双方に学問(八歳で書、十五歳で学)を求める本旨に反する。
  • 【敬慎】陰陽の性は異なり、剛を尊ぶ男に対し女は柔弱を美とする。敬とは久しきを持することを知り止足を知ることで、順とは寛裕・謙下を尊ぶこと。夫婦の間で慣れが媟黷(馴れ合いによる無礼)を生めば侮りが生じ、曲直の争いが恭下を失わせれば忿怒を招く。恩義が共に廃れれば夫婦は離れる。
  • 【婦行】婦徳(清閑貞静、節を守り恥を知る)・婦言(悪語を語らず時に応じて話す)・婦容(服飾を清潔にし身を垢れさせぬ)・婦功(紡績に専心し賓客に酒食を供す)の四行こそ女の大徳であり、行うこと自体は難しくない。
  • 【専心】礼では夫に再娶の義があっても婦に二適なしとされ「夫は天なり」と言う。天は逃れられず夫も離れられない。女憲に「一人に得意すれば永く終える、一人に失意すれば永く訖える」とある通り、夫の心を得ることを求めるが、それは佞媚に阿ることではなく、専心正色(淫らを聴かず邪を視ず、みだりに着飾らず群れ集わない)を守ることを言う。
  • 【曲従】舅姑の心を得るには「曲従」に勝るものはない。姑の言が正しくなくとも従うべきで、正しくとも自分の意見を通そうと曲直を争ってはならない。女憲に「婦は影と響のようであれ」とある。
  • 【和叔妹】夫の愛は舅姑の愛によりもたらされ、舅姑の愛は小舅・小姑の評判によってもたらされる。聖人でなければ過ちを避けられぬもの、顔回が過ちを改めることを貴んだように、婦人も謙順を旨として小舅・小姑との和を保つべき、家人が和すれば謗りは外に漏れず、離れれば悪評が広まる。
  • 馬融はこの書を善しとして妻子に習わせた。昭の女婿の妹・曹豊生も才知に優れ、この書に反論する文を作りその文辞は評価された。昭は70余歳で没し、皇太后は素服で哀悼、使者に葬儀を監護させた。著した賦頌銘誄問注哀辞書論上疏遺令凡そ十六篇は子の嫁の丁氏が編纂し「大家讃」も作った。

楽羊子の妻

  • 河南の楽羊子の妻は素性不明。羊子が道で拾った金一塊を持ち帰った際、妻は「志士は盗泉の水を飲まず、廉者は嗟来の食を受けぬと聞く、拾い物で行いを汚してよいのか」と諭し、羊子は恥じて金を野に捨て、遠く師について学びに出た。一年後帰郷した夫に妻は跪いて理由を問い、羊子が「久しく旅をして家を思っただけ」と答えると、妻は刀を取り機に向かい「この織物は蚕繭から糸を紡ぎ機で織り、一寸また一寸と積み重ねてようやく一反になる、今この糸を断てば功を捐て時を廃するのと同じ、学問も日々知を積んで徳を成すもの、中道で帰るのは糸を断つのと何が違うか」と説いた。羊子は感じて学業に戻り7年間帰らなかった。妻は姑への孝養を怠らず遠方まで届け物をし、隣家の鶏が迷い込んで姑が盗み殺して食べた際も自ら食べず涙したという。後日、盗賊が妻を犯そうとして先に姑を人質に取った際、妻は刀を手に出て「従わねば姑を殺す」と脅されても「義として辱めを受けぬ」と自ら首を刎ねて死んだ。盗賊も姑には手を出さず、太守が賊を捕らえ処刑し、妻を「貞義」と諡して手厚く葬った。

陳文矩の妻

  • 漢中の陳文矩の妻は同郡李法の姉、字は穆姜。二男を産み、前妻の四子も養った。文矩が安衆令として任地で没した後、四子は継母を疎んじたが穆姜は慈愛温仁で衣食を実子以上に厚く与えた。周囲が「別居させては」と勧めても「義をもって自ら改心させたい」と答えた。前妻の長子の興が重病になった際、穆姜が自ら薬膳を調え篤い恩情を注いで治癒に導くと、興は弟たちに「継母の慈仁は天授、我らはその恩に気づかず禽獣のようだった、母の道はますます厚いのに我らの過ちは深すぎる」と語り、三弟を伴い南鄭の獄に赴き母の徳と自らの過ちを訴えて処罰を願い出た。郡守はこの母を表彰し家の労役を免除、四子は釈放され改心して皆立派な士となった。穆姜は80余歳で没する際、弟の伯度(薄葬の主張で知られる)を引き子らに薄葬を遺言し、子らはこれに従った。

孝女曹娥

  • 孝女曹娥は会稽上虞の人。父の曹盱は巫祝で弦歌を能くしたが、漢安2年5月5日、県の江で潮を迎える神事(婆娑神を迎える儀)の最中に溺死し遺骸が見つからなかった。娥は14歳で川に沿って昼夜哭泣し続け、17日後に自ら江に身を投げて死んだ。元嘉元年、県長の度尚が娥を江南に改葬し道傍に碑を建てた。この碑文は魏朗が作った草稿を邯鄲淳(字子礼)が即座に書き改め、後に蔡邕が「黄絹幼婦、外孫虀臼」(絶妙好辞の隠語)と八字を書き加えた逸話が伝わる。

許升の妻

  • 呉の許升の妻は呂氏の女、字は榮。夫の升は若くして博打に耽り身を持ち崩していたが、榮は家業に励んで姑を養い、しばしば升に学問を勧め、不善があれば涙して諫めた。榮の父は怒って娘を離縁させようとしたが、榮は「命運は義に外れられぬ」と嘆じ実家に戻ることを拒んだ。升は感激して学に励み、遠方に師を求めついに名を成したが、州の辟召で赴く途中、寿春で盗賊に殺害された。刺史尹耀が賊を捕えると、榮は道で喪を迎える途中これを聞き、自ら仇討ちを願い出て許され、手ずから賊の首を斬って升の霊に捧げた。後日、郡が寇賊に襲われ榮が犯されそうになった際、垣を越えて逃げるも追われ「従わねば殺す」と迫られると「義として盗賊に身を辱められるものか」と拒み殺害された。その日、疾風暴雨・雷電晦冥が起こり賊は恐れて叩頭し謝罪、遺体は手厚く葬られた。

袁隗の妻

  • 汝南の袁隗の妻は扶風馬融の女、字は倫。倫は才弁があり、馬家は豊かで支度も盛大だった。結婚に際し隗が「妻の務めは箕帚のみ、なぜこれほど華美なのか」と問うと「慈親の愛ゆえの支度、貴殿がもし鮑宣・梁鴻のような高節をお望みなら、私も少君・孟光のようにいたします」と答えた。隗が「妹が姉より先に嫁ぐのは世の笑い物だが、姉が未婚のまま貴殿を差し置いて自分が嫁ぐのはどうか」と問うと「姉は高潔で伴侶を選び抜いているだけ、鄙俗な急ぎではない」と答えた。「南郡君(馬融)は学問極めた文章の宗だが、任地では常に財貨で損なわれる評判があるのはなぜか」との問いには「孔子ですら叔孫武叔の誹りを免れず、子路ですら公伯寮の讒言を受けた、父がそうした誹りを受けるのも当然の理」と答え、隗は言い返せず、帳外で聞いていた者たちも感嘆した。隗が寵貴を得た当時、倫もその名を世に知られ、60余歳で没した。妹の袁芝も才義があり、若くして親を失った悲しみを『申情賦』に詠んだ。

龐淯の母

  • 酒泉の龐淯の母は趙氏の女、字は娥。父が同県人に殺され、兄弟三人も相次いで病没したため、仇はこれを喜び「もう誰にも報復されまい」と自賀した。娥は密かに憤りを抱き刀を用意し十余年仇の家を車で見張り続け、都亭で仇に遭遇するや刺殺し、県に自首して「父の仇は既に報いた、刑に服する」と申し出た。福禄長の尹嘉はその義に感じ印綬を解いて共に逃げようとしたが、娥は「怨みを塞いだ以上死ぬのが私の分、罪を認め獄に入るのが理、あなたが公法を枉げるべきではない」と拒んだ。後に恩赦で免れ、州郡がその閭を表彰、太常張奐も束帛でその義を嘉した。

劉長卿の妻

  • 沛の劉長卿の妻は同郡桓鸞の女。一男を産んだが5歳の時に長卿が没し、妻は嫌疑を避けて実家に帰らず貞節を守った。子も15歳で早世すると、妻は貞節を疑われることを恐れて自ら耳を刑し(切り落とし)誓いを立てた。周囲が「あなたの家に他意はないだろうに、なぜそこまで義を貴んで身を軽んじるのか」と問うと「先祖の五更(桓栄)以来、代々儒宗として仕え男は忠孝、女は貞順で称された家系、詩に『祖先を辱めるなかれ』とある通り、自ら形を刑して志を明らかにした」と答えた。沛相の王吉が上奏してその高行を表彰し「行義桓嫠(貞義の桓寡婦)」と称され、以後、県邑の祭祀には必ずその祭祀の余肉が届けられた。

皇甫規の妻

  • 安定の皇甫規の妻は素性不明。規が先妻を亡くした後に娶った。妻は文才があり草書を能くし、規の書簡を代筆するほどであった。規の死後、妻はなお若く容色美しく、董卓が相国となった際その名を聞き輜車百乗・馬二十匹・奴婢銭帛を用意して婚を迫った。妻は簡素な服で卓の門に赴き、涙ながらに事情を訴えたが、卓は刀を持つ従者に囲ませ「私の威令は四海を靡かせるのに、一婦人にすら通じぬはずがあろうか」と迫った。妻は逃れられぬと悟ると卓を面罵し「羌胡の種たるお前が天下を毒するのはまだ足りぬのか、私の先祖は代々清徳の家系、皇甫氏は文武の才で漢の忠臣、あなたのごとき者に非礼を働かせるものか」と罵倒し続け、卓は怒って車で庭を引き回し、頭を軛に懸け鞭打たせた。妻は打つ者に「もっと強く打て、早く終わらせてくれ」と告げ、車の下で絶命した。後人はその姿を描き「礼宗」と称した。

陰瑜の妻

  • 南陽の陰瑜の妻は潁川荀爽の女、名は采、字は女荀。聡敏で才芸があり17歳で陰氏に嫁ぎ19歳で娘を産んだが夫の瑜が没した。采はなお若かったため周囲の圧力を警戒し身を固く守っていた。同郡の郭奕が妻を失うと父の爽が采を許婚として与えようとし、詐って病篤しと偽り呼び戻したが、既に決められた以上、采は刃を懐に自誓し、周囲が刃を奪い抱えて郭家へ送り届けた。到着後、采は偽って喜びを装い「陰氏と同穴に葬られる望みが叶わぬなら仕方ない」と語り、四つの灯りを灯して盛装で郭奕を招き語り明かして拒み通し、朝になって退出させた後、周囲に沐浴の支度を命じて自室に籠り、扉に「屍還陰陰(屍は陰氏に還る)」と書きかけたところで来訪者を懼れ衣帯で自ら首を吊った。周囲が油断して見に行った時には既に絶命していた。世人はこれを深く悼んだ。

盛道の妻

  • 犍為の盛道の妻は同郡趙氏の女、字は媛姜。建安5年、益州に乱が起こり道が挙兵に加わり事敗れて夫妻共に投獄され死罪に処されようとした際、媛姜は夜中に道へ「法に定めた刑は必ず執行される、生きる望みはない、あなたは急ぎ逃げて家門を再興しなさい、私が獄に留まり身代わりとなる」と告げた。道が躊躇う中、媛姜は自ら道の枷を解き、5歳の子の翔を連れて逃がし、自身は夜の点呼に道になりすまして受け答えを続けた。道が遠く逃げおおせた頃に真相を告げると、媛姜はその場で処刑された。道父子は恩赦で帰郷し、道はその義に感じ生涯再婚しなかった。

孝女叔先雄

  • 孝女叔先雄は犍為の人。父の叔先泥和は永建初年、県功曹として太守への使いの途上、舟が急流で転覆し遺体が見つからなかった。雄はこの悲しみに昼夜哭泣し身を投げる決意を固め、幼い二人の子に珠環を入れた袋を持たせ別れの言葉を残し、家族が防いでいたが百日ほどで油断が生じた隙に、父の墜落した場所で小舟から慟哭し身を投げて死んだ。弟の賢の夢に雄が現れ「六日後に父と共に浮かび上がる」と告げ、期日通りに父と抱き合った姿で江上に浮かんだ。郡県はこれを表彰し碑を建て肖像を描いた。

董祀の妻(蔡文姫)

  • 陳留の董祀の妻は同郡蔡邕の女、名は琰、字は文姫。博学で才弁があり音律にも精通した。初め河東の衛仲道に嫁いだが夫が早世し子なく実家に戻った。興平年間の大乱で文姫は胡騎に捕らえられ南匈奴に連れ去られ、左賢王の下で12年を過ごし二子を産んだ。曹操はかねて蔡邕と親しく、その後嗣が絶えることを惜しんで使者に金璧を持たせ文姫を贖い、董祀に再嫁させた。祀が屯田都尉として法を犯し死罪に問われた際、文姫は蓬髪のまま徒歩で曹操に赴き、叩頭して助命を請うたその弁舌は満座を感動させ、「明公の厩馬は万匹、虎士は林のごとし、疾く一騎を惜しんで垂死の命を救わぬはずがあろうか」との訴えに操は感じ祀の罪を赦した。
  • 操が「亡父の家にあった書籍を覚えているか」と問うと、文姫は「亡父から賜った四千余巻は流離の中ですべて失われたが、今なお暗誦できるのは四百余篇」と答え、口述筆記により正確に書き上げた。乱離を経た悲憤を込めて『悲憤詩』二章を作った。
  • 一章目は五言詩で、董卓の乱により賢良が害され、洛陽が焼かれ胡羌の兵が民を虐殺し、自身も捕虜として連行された辺境の惨状(馬の首に男の首を、馬の背に婦女を載せて西へ連行される様、鞭打たれ罵られる日々、生きるも死ぬも叶わぬ苦しみ)を詠み、望郷の念と胡地の異俗、そして曹操による帰還の知らせを受けながらも異郷に残す我が子との今生の別れの悲痛(子が「母は行ってしまうのか」と縋る場面)を極めて悲痛に描いた。帰路の別れの場面では周囲の胡人たちも歔欷し、故郷に帰り着くと家族は皆亡く城郭は荒れ果て白骨が散乱し、生きる望みも失いかけたが「新たな夫(董祀)に命を託し心を尽くして生きよう」と結んだ。
  • 二章目は騒体(楚辞体)の詩で、薄命の身が世の患いに遭い宗族が絶え西の関を越え羌蛮の地を経る道程、望郷の悲嘆、極寒の異郷での孤独な日々、胡笳の音や胡地の楽の悲しさ、そして帰郷が叶う知らせを受けながらも幼子を置いて発つ引き裂かれるような別れ(子が母を呼んで泣き叫ぶ声に耳を塞ぐ場面)を詠み、「心は絶えてまた生き返る」との言葉で締めくくった。

史論(賛)

  • 賛に曰く。端正な操はそれぞれの足跡を残し、幽閑な婦徳はそれぞれの姿を示した。その明らかな風烈は、赤い管の筆(女史の記す筆)を通じて我らを照らす、と。