総序――隠逸の意義
- 易は「遯(隠遁)の時義は大なるかな」「王侯に事えず高くその事を尚ぶ」と称える。堯は許由・巣父の高潔を強いず、武王も伯夷・叔齊の孤竹の節を全うさせた。以後、隠者の風は絶えず、その動機は「隠居して志を求める」「曲げて避けて道を全うする」「己を静めて躁を鎮める」「危を去って安を図る」「俗を穢して自らの節を示す」「物を疵り清さを際立たせる」など様々であった。彼らが畎畝に甘んじ江海に憔悴するのは魚鳥を愛したからではなく、それぞれの性分の赴くところであった。柳下惠が恥を蒙りながらも国を去らず、魯仲連が蹈海の節を千乗の富にも動かされなかったように、志を曲げさせることはできない。
- 王莽簒位の際には冠冕を裂き捨てて去った士が数知れず、揚雄の言うように「高く飛ぶ鴻に弋人(狩人)が何をなせようか」と患いを遠く避けた。光武帝は側席して隠者を求め、旌帛蒲車の使者が巌中に相望むほどであったが、薛方・逢萌は招かれても応ぜず、厳光・周党・王覇は至っても屈せず、それぞれの志を遂げた。肅宗(章帝)もまた鄭均を礼し高鳳を徴してその節を成した。以後帝徳がやや衰えると、隠者を気取る者が実は驕慢に流れる例も生じたが、ここでは俗塵に染まらぬ者を選んで本篇に列する。
野王二老
- 野王二老は素性不明。光武帝がまだ更始帝に従っていた頃、鄧禹の西征を見送った帰路、野王で狩りをした際、二人の老人に会った。光武帝が「獲物はどちらに」と問うと「この先には虎が多く、我らも臣も虎に狙われる、大王は行かれるな」と答え、光武帝が「備えがあれば虎も恐れることはない」と言うと、老人は「昔、湯王は桀を鳴条で討ち亳に大城を築き、武王も紂を牧野で討ち郟鄏に大城を築いた、彼らの備えも決して浅くはなかった、人を狙う者は人にも狙われる、備えがあっても侮ってはならぬ」と答えた。光武帝はその意を悟り「これは隠者だ」と左右に告げ用いようとしたが、姿を消して行方が分からなくなった。
向長
- 向長、字は子平。河内朝歌の人。隠居して仕えず、中和を尚び老子・易に通じた。貧しく食に窮すると好事家の施しを必要な分だけ受け残りは返した。王莽の大司空王邑の招きにも度々拒み、莽への推薦も固辞。易の損益卦を読んで「富は貧に及ばず、貴は賤に及ばぬと知った、ただ死が生に及ぶかどうかはまだ分からぬ」と嘆じた逸話がある。建武年間、子女の婚姻を終えると家事を絶ち「私が死んだと思って構わぬように」と命じ、北海の禽慶と共に五嶽名山を巡り、そのまま行方知れずとなった。
逢萌
- 逢萌、字は子慶。北海都昌の人。家貧しく県の亭長を務めたが、ある日尉の巡察に応対した後、盾を投げ捨てて「大丈夫たる者、なぜ人に使役されねばならぬのか」と嘆じて去り、長安で春秋を学んだ。王莽がその子・王宇を殺した事件を機に「三綱が絶えた、去らねば禍が及ぶ」と友に語り、冠を脱いで東都城門に掛けて去り、家族と共に海を渡って遼東に寓居した。萌は陰陽に明るく莽の敗亡を予知し、瓦の盆を頭に載せて市で「新(王莽の国号)よ、新よ」と哭泣した後、姿を隠した。
- 光武帝即位後は琅邪の勞山に移り養志脩道、人々を感化した。北海太守が礼を尽くして招いても応ぜず、太守が怒って捕吏を送ろうとすると、吏は「子慶は天下に聞こえた大賢、人々が父のように敬う地で捕らえようとすれば逆に辱めを受けるだけ」と諫めた。太守は怒って別の吏を送ったが、住民が武器を取って阻み吏は負傷して逃げ帰った。後の詔での徴召にも「老耄で道も分からぬ」と辞し、天寿を全うした。萌は同郡の徐房・李子雲・王君公と親しく、皆陰陽に明るく徳を懐きながら世俗に紛れて生きた。房と子雲は各々千人の徒を養い、君公は乱世にも一人残り牛の仲買(儈牛)に身をやつして隠れ、時人は「牆東(垣根の東)に世を避けた王君公」と語り継いだ。
周党
- 周党、字は伯況。太原広武の人。家産千金の家に生まれ幼くして孤児となり、宗族に養われたが不当に扱われ、財産も返されなかった。訴訟の末に財産を取り戻すと、悉く一族に分け与え奴婢も解放し長安に遊学した。かつて衆人の前で自分を辱めた郷佐(賦税を司る役人)を、春秋の復讐の義(九世でも復讐は可)を読んで恨みを晴らそうと決闘を挑み、負傷して倒れたところを郷佐に救われ、その義に感じて争いを止めたという逸話がある。以後、身を修め志を立て州里に称された。
- 王莽簒位の際は病と称して門を閉ざし、賊乱が郡県を荒らす中でも広武の城だけは通り過ぎ被害を受けなかった。建武年間、議郎に徴されたが病で辞し黽池に隠棲、再徴された際は粗末な服装で尚書に謁見の待機をした。光武帝の引見でも伏したまま礼を執らず自らの志を守りたいと願い出て許された。博士范升が「堯は許由巣父を必要とせず天下を建て、周も伯夷叔齊なくして王道を成した、周党らは招聘に驕慢な態度を取りながら三公の位を狙う虚名の徒」と弾劾する上奏をしたが、帝は「古の明王聖主にも招きに応じぬ士があった、伯夷叔齊が周の粟を食まなかったように、周党が朕の禄を受けぬのもまた志である」との詔で帛四十匹を賜り不問とした。党は黽池に隠居し著書上下篇を残して没し、邑人はその賢を慕い祠を建てた。同郡の譚賢(字伯升)・鴈門の殷謨(字君長)も王莽の代に節を守り仕えず、建武年間の徴召にも応じなかった。
王覇
- 王覇、字は儒仲。太原広武の人。若くして清節あり、王莽簒位に際し冠帯を脱ぎ仕官の道を絶った。建武年間、尚書に召された際、「臣」でなく名を称するのみで応じ、理由を問われると「天子にも臣とせぬ者あり、諸侯にも友とせぬ者あり」と答えた。司徒侯覇が位を譲ろうとしたが、閻陽が「太原の風習を色濃く残す儒仲の登用は不適」と誹謗し取り止めとなった。病で帰郷し隠居、茅屋蓬戸で度重なる徴召にも応ぜず天寿を全うした。
厳光
- 厳光、字は子陵、一名は遵。会稽余姚の人。若くして高名を持ち光武帝と同窓だった。光武帝即位後、光は姓名を変えて姿を隠したが、帝はその賢を思い形貌を頼りに捜索させ、羊裘を着て沢で釣りをする男との報告に光と確信し、安車玄纁を用意し使者を三度往復させてようやく京師に招いた。司徒侯覇が旧知として書を送った際、光は横柄な態度で使者に「三公になっても愚かなままか」と皮肉り、口授の返書で「顔つき通り愚かではないと分かった、天子ですら私に会えぬのに臣下が会えると思うか」と辛辣に応じた。覇がこの書を帝に見せると帝は「例の狂った態度だな」と笑った。
- 帝自ら光の宿を訪ねても寝たまま起きぬ光の腹を撫でて「子陵よ、私を助けて政を行ってくれぬか」と語りかけても答えず、しばらくして目を開き「唐堯の徳あるも巣父は耳を洗った、志ある士なのだ、なぜそこまで迫るのか」と答えた。帝は「子陵、私はどうしてもそなたを屈服させられぬのか」と嘆息して去った。後日再び招いて共に語らい、旧交を温めた際「私は昔とどう変わったか」と問うと「陛下はやや貫禄が増しました」と答え、共に寝転んだ夜、光が帝の腹に足を乗せる無礼を働いたが、翌日、客星が御座を犯したと太史が驚いて奏上したのに帝は「我が旧友の厳子陵と共寝しただけだ」と笑った。諫議大夫に任じようとしたが屈せず、富春山で耕作し、後にその釣り場は「厳陵瀬」と名付けられた。建武17年、再び特に招かれても応ぜず、80歳で自宅に没し、帝はその死を惜しみ郡県に銭百万・穀千斛を下賜させた。
井丹
- 井丹、字は大春。扶風郿の人。若くして太学で五経を学び談論に優れ、「五経紛綸(博通の意)井大春」と京師で称された。清高な性格で人に取り入ることをせず、建武末、沛王劉輔ら五王が北宮で賓客を集めた際、招いても応じなかったが、外戚として権勢を誇る信陽侯陰就が五王を騙して「千万銭で丹を招く」と約し人を送って強引に連れて来させた。就が粗末な麦飯と葱の食事でもてなすと、丹は「甘美な食事が出せるはずと聞いて来たのに何と粗末な」と押し返し、豪華な食事に替えさせてから食べた。就が輦に乗ろうとした際「桀が人に車を引かせたと聞くが、これがそれか」と笑い、座は色を失い就は輦を退けさせた。以後、丹は隠遁して人事に関わらず天寿を全うした。
梁鴻
- 梁鴻、字は伯鸞。扶風平陵の人。父の梁譲は王莽の代に城門校尉・脩遠伯として少昊の後裔の祭祀を任じられ北地で没した。鴻は幼くして乱世に遭い簡素な葬儀(席で包んで葬る)で父を弔い、後に太学で学び家貧しくも節介を尚び博覧に通じたが章句の学に拘らなかった。学を終えて上林苑で豚を放牧していた際、誤って火を出し隣の家に延焼させた際、被害者を訪ねて損失をすべて豚で弁償しようとしたが「まだ足りぬ」と言われると「他に財なし、この身で働いて償う」と申し出て勤勉に働き、隣家の古老たちが鴻の人物を見抜いて主人を責め、豚も全て返却された逸話が伝わる。
- 帰郷後、権門が娘を娶わせようとしたが全て断り、同県の孟氏の娘(肥満で色黒だが石臼を持ち上げる力を持つ)が30歳まで嫁がず「梁伯鸞のような賢人でなければ嫁がない」と言い続けたのを聞いて娶った。ところが嫁入りの日に美しく着飾って現れた妻に7日間口をきかなかったため、妻が「賢人が数々の妻を退けたと聞き、私も夫を選び抜いてきた、罪があるなら申しつけを」と跪くと、鴻は「私が望むのは共に深山に隠れられる質素な人、綺羅を纏い化粧をした姿は望むところではない」と答えた。妻は「あなたの志を試したのです、私にも隠棲の服があります」と答えて椎髻に粗末な布衣で働く姿に改め、鴻は大いに喜び「これぞ真の梁鴻の妻だ」と字を徳曜、名を孟光と名付けた。
- 妻の勧めで共に霸陵山に入り耕織を業とし、詩書を詠み琴を弾じて楽しみ、四皓以来の隠者24人を頌に詠んだ。関を東に出て京師を過ぎた際に作った『五噫の歌』は「北芒に登り帝京を望めば、宮室は高く聳え、人々は苦役に疲れ、その道は遥かに終わりが見えぬ」と各句に「噫(ああ)」を重ねて世を嘆く内容で、肅宗(章帝)がこれを聞き非難し捜索したが、鴻は姓名を運期・燿・侯光と変えて妻子と斉魯の間に隠れ、さらに呉へ移る際には「旧邦を去り遥かに東南へ向かう、心は傷み志は定まらぬが、俗の讒言と枉直転倒の世を厭い、賢を尚ぶ異なる州を求めて彷徨う」という趣旨の詩を作り、季札・魯仲連の故事に自らをなぞらえつつ心境を述べた。
- 呉に着いた鴻は大家の皋伯通の廡(家の脇屋)の下に身を寄せ、賃仕事の脱穀で生計を立て、妻は食事を運ぶ際に決して夫の前で顔を上げず、盆を眉の高さまで捧げて差し出した(「挙案齊眉」の故事)。これを見た伯通は「傭人風情がこれほど妻に敬われるとは、ただ者ではない」と悟り、家の中に住まわせた。鴻は病に伏した際、延陵季子が子を故郷に葬らず現地に葬った故事を引き「私の柩も故郷に持ち帰るな」と遺言し、没した後、伯通らは呉の要離の墓の傍らに葬った(要離は烈士、伯鸞は清高の士として相応しいとされた)。妻子はその後扶風に帰った。
- 鴻の友人で京兆の高恢は華陰山に隠れ老子を好んだが、鴻が東へ旅立った際に思いを寄せた詩を残し、以後二人は再び会うことはなかったが、高恢もまた終生仕えなかった。
高鳳
- 高鳳、字は文通。南陽葉の人。若くして書生であり農を業としながら誦読に専心、昼夜怠らなかった。妻が庭で麦を干している間に鶏の番を頼んだところ、鳳は経を誦じるあまり大雨で麦が流されても気づかなかったという逸話がある。後に名儒となり西唐山で教授、隣人の財産争いの喧嘩を巾を脱いで叩頭し「仁義遜譲をなぜ棄てるのか」と諫めて仲裁した。老いても志を曲げず、太守の招聘には「自分は巫の家系で吏には向かぬ」「寡嫂と田を争っている」などと偽って辞退し続け、仕官しなかった。建初年間、将作大匠任隗の直言の挙にも病と偽り逃げ帰り、財産を全て兄の遺児に譲り漁釣で自適し自宅で没した。
史論(論)
- 論じて言う。亡き父・宣侯(范曄の父范泰)はかつて講義の合間に逸士の篇に触れ、高文通(高鳳)の伝で感じるところあり筆を留めて論じた――古の隠逸の風はまさに尚ぶべきもの、許由が禅譲を聞いて耳を洗い、伯夷叔齊が周の粟を恥じて食まなかったように、高く身を置いて行いを違え、あるいは物を疾んで情を矯めるなど、その軌跡は異なれど去就の一致するところは同じである。彼らの志は青雲の上にありながら身は泥汚の下に沈め、名すら顕さぬことを願った、それは屈原が沙を懐いて淵に沈み、嵆康が刑に臨んで日影を見て琴を弾いた故事にも通じるものであろう、と。
台佟
- 台佟、字は孝威。魏郡鄴の人。武安山に穴を掘って住み薬草を採って自給した。建初年間、州の招きにも応ぜず、刺史が巡視の際に使者を送っても、佟は病と偽って謝辞を述べただけであったが、刺史自ら贄を持って訪ね「これほど苦しい暮らしをなぜ続けるのか」と問うと、佟は「私は天寿を保ち性命を養い神を存し和を養っている、それに比べ明使君(刺史)は詔書を奉じ日々戦々恐々として庶事に臨んでいる、むしろそちらの方が苦しくないか」と答え、そのまま姿を消し二度と現れなかった。
韓康
- 韓康、字は伯休、一名は恬休。京兆霸陵の人。名家の出でありながら名山で薬草を採り長安の市で三十余年、値切らず一定の値で売り続けた。ある女性が値切ろうとした際「あなたは韓伯休では、値切れぬというのは本当か」と言われたことに、康は「私は名を避けたいのに、小娘にまで名を知られている、薬など売って何になろう」と嘆じ霸陵山に隠遁した。博士・公車の再三の徴召にも応ぜず、桓帝が玄纁の礼で安車を送って招いた際、康は已むを得ず承諾したものの、安車を断って柴車に乗り朝早く先回りして出立した。亭長は韓徴君の通行に備え道を整備していたが、粗末な柴車に幅巾姿の康を田舎の老人と勘違いして牛を奪い取ろうとし、康は素直に牛を渡して去った。後から来た本来の使者一行がこれを見て「あの老人こそ徴君だった」と知り、亭長を処刑しようとしたが、康は「これは老いた私自身が渡したこと、亭長に罪はない」と止め、そのまま逃げ隠れて天寿を全うした。
喬慎
- 喬慎、字は仲彦。扶風茂陵の人。若くして黄老を学び山谷に隠れ穴居し、赤松子・王子喬の導引の術を慕った。馬融・蘇章と同郷同時代で、融は才博で顕名、章は廉直で称されたが、両者とも慎を上に推した。汝南の呉蒼が敬慕して書を送り「隠約に処す志は尊いが、伊尹が畎畝に処しながらも堯舜の道を楽しみ堯舜の君を実現させたように、施政に生かす道もある、単なる登山絶跡では神も証を残さず人も験を見ない」と説き出仕を勧めたが、慎は答えず、70余歳まで独身を貫き、後に突然帰宅し自らの死期を告げて予告通り没した。後年、敦煌で慎を見かけたとの証言もあり、神仙になったとの噂も伝わる。同郡の馬瑶は汧山に隠れ兎網猟を業とし、その徳化で住民が感化され「馬牧先生」と称された。
戴良
- 戴良、字は叔鸞。汝南慎陽の人。曽祖父の戴遵(字子高)は平帝の代に侍御史、王莽簒位に病と称して帰郷、家は富み侠気を好み食客三四百人を養い「関東の大豪、戴子高」と称された。良は若くして奇矯な性格で、母がロバの鳴き声を好んだため自らそれを真似て母を楽しませた逸話がある。母の死後、兄の伯鸞(梁鸞ではなく戴良の兄)は喪に服し粥をすすり礼を厳格に守ったが、良は肉酒を口にしながらも悲しみの至る所で号泣し、二人とも共に憔悴した。「服喪の礼に外れているのでは」と問われると「礼とは情の過剰を制するもの、情がそもそも過剰でなければ礼を論じる必要はない、美食が甘く感じられぬなら憔悴するのが自然、味が分からぬまま食べるのも一つの道」と答え、論者もこれに反論できなかった。
- 良は才が高いだけでなく議論も奇抜で世を驚かせた。同郡の謝季孝に「天下の誰と自らを比するか」と問われ「私は東の魯に生まれた仲尼のごとく、西の羌から出た大禹のごとく、天下に独歩する存在、誰と並べられようか」と答えた。孝廉に挙げられても応ぜず、司空府に二度招かれても年を跨いで赴かず、州郡が迫ると妻子を連れて出発したふりをして江夏の山中に逃げ隠れ、優游自適のうちに天寿を全うした。5人の娘は皆賢く、嫁ぎ先を求められるとすぐに疎末な支度で嫁がせ、皆その教えを守り隠者の風を備えたという。
法真
- 法真、字は高卿。扶風郿の人。南郡太守法雄の子。学問を好み定まった師を持たず内外の図典に博通し関西の大儒と称され、陳留の范冉ら数百人の弟子が集まった。恬静寡欲で人事に関わらず、太守が礼を尽くして招いても幅巾で応対し「魯の哀公は不肖でも孔子は臣と称した、私に功曹をお願いしたい」との求めに「太守が礼を尽くしてくださるからこそ賓客として応じている、もし吏として扱うなら私は北山の北、南山の南に逃げるだけ」と答え、太守は再び言えなくなった。公府・賢良の招きにも応ぜず、同郡の田羽が「法真は詩書礼楽の四業を兼ね学は典奥を窮め、老子の高踏を体現しており、三公に加えるべき」と推薦したが、応じなかった。順帝の西巡の際にも四度の徴召を受けたが「私は形を隠して世を遠ざけているわけではないが、許由の耳を洗った水を飲むまでの覚悟だ」と拒み続けた。友人の郭正は「法真の名は知られても身は見えぬ、名を逃れようとしてなお名が追ってくる、まさに百世の師と言うべき」と称え、その碑を建て「玄徳先生」と号した。中平5年、89歳で天寿を全うした。
漢陰老父
- 漢陰老父は素性不明。桓帝の延熹年間、帝が竟陵に巡幸し雲夢を過ぎ沔水に臨んだ際、人々がこぞって見物する中、一人の老人だけが耕作を止めなかった。尚書郎張温が怪しんで理由を問うと笑って答えず、温が下座して自ら問いかけると「私は野人ゆえよく分からぬが、天下が乱れて天子を立てたのか、治まって天子を立てたのか。天子は天下を父のように治めるためか、それとも天下を役して天子を養うためか。昔の聖王は茅葺の宮殿でも万民は安んじた、今の君主は民を労しながら自ら遊興に耽り恥ずべきことだ、それを民に見せびらかしたいのか」と答えた。温は大いに恥じ姓名を問うたが、答えず立ち去った。
陳留老父
- 陳留老父は素性不明。桓帝の代、党錮の禁が起こった際、外黄令を辞した陳留の張升が帰郷の道中、友人と嘆き合った。升は「趙が竇鳴犢を殺したのを聞き孔子が黄河を前に引き返した故事のように、宦官が日々忠良を陥れる今、賢人君子は朝を去るべきか、しかし徳が立たず助けもなければ命も危うい」と語り、二人抱き合って泣いた。そこへ通りかかった老父が杖をついて「龍は鱗を隠さず鳳は羽を隠さぬ、既に網が高く懸けられているのに泣いても仕方なかろう」と嘆じたが、二人が話しかけようとすると振り返らず立ち去り、行方は分からなかった。
龐公
- 龐公は南郡襄陽の人。峴山の南に住み一度も城府に入らず、夫婦は賓客のように敬い合った。荊州刺史劉表が幾度招いても屈せず、表自ら訪ねて「一身を保つより天下を保つ方が優るのでは」と問うと、龐公は笑って「鴻鵠は高林に巣くい暮れには宿を得、黿鼉は深淵に穴居し夕べには宿を得る、進退去就もまた人それぞれの巣穴、各々の宿るところを得るのみで天下を保つべきものではない」と答え、畑を耕す傍らで妻子が前で草を取る様子を見せた。表が「子孫に何を遺すのか」と問うと「世人は皆危険を遺すが、私は独り安寧を遺す、遺すものが違うだけで何も遺さぬわけではない」と答え、表は感嘆して去った。後に龐公は妻子を連れて鹿門山に登り薬草を採ったまま戻らなかった。
史論(贊)
- 賛に曰く。江海に姿を没し山林に長く去り、天性を遠くに遊ばせ、雲の彼方に情を疎放にし、虚を尊んで身を全うし、俗塵から離れて生きる、と。