序――酷吏の存在理由
- 漢は戦国の遺風を承け豪猾の民が多く、兼併する者は邦邑を陵駕し、剛健な者は閭里に威を張った。地方官の職掌が広大な戸口を治める以上、威断を専らにし宗族を族滅させ先に処刑してから報告する(先斬後奏)激しさを持った。前漢の甯成・郅都・厳延年・王温舒らの故事(甯成が濟南都尉として恐れられた話、郅都が瞷氏の悪を誅した話、王温舒に「虎冠の吏」と呼ばれる爪牙の吏がいた話、厳延年が「屠伯」と呼ばれた話)を引きつつ、酷吏には強権を挫き公卿の頭を砕くほどの剛胆さもあったと評する。
- 後漢の中興以後、法網は密になったが厳酷さは前世より減った。しかし宦官の親戚が天下を虐げたため、陽球が王甫の屍を磔にし、張儉が曹節の墓を暴くような事態も生まれた。これらは民の憤りを晴らす一方で酷烈でもあった(張儉は既に党人篇に記されているため、ここでは記さない)。
董宣(少平)――「臥虎」洛陽令
- 董宣、字は少平、陳留郡圉の人。司徒侯霸の招きで高第となり北海相に至った際、大姓の公孫丹が新居の凶相を避けるため通行人を殺して屍を家に置いた事件を知り、丹父子を処刑。抗議に来た丹の宗族30余人も、丹が王莽に付いた過去から海賊との内通を疑い、劇の獄で門下書佐水丘岑に皆殺しさせた。青州は濫殺として訴え、宣は召還され獄中でも動じなかったが、刑執行の際「董宣は生涯人の食を食んだことがない」と述べ堂々と車に乗った。光武帝が特に赦し、宣は「岑は私の命令に従っただけ、私を殺して岑を生かしてほしい」と訴え、宣は懐令に左遷、岑への罪追及は止められた(岑はのち司隷校尉に至った)。
- 江夏太守として賊夏喜らに「太守の威に自ら安んじよ」と檄を送り降伏させ、外戚陰氏の郡都尉を軽んじたことで免職。のち洛陽令に召された際、湖陽公主の従者が白昼殺人を犯し主家に匿われていたのを、夏門亭で公主の車を停め奴を斬った。公主が帝に訴え帝が激怒すると、宣は「陛下が聖徳で中興されながら、奴が良民を殺すことを許せば天下をどう治めますか、鞭は不要、自ら死にます」と柱に頭を打ちつけ流血、帝が公主に頭を下げさせようとしても両手を地につけて頑として応じず、「文叔(光武帝の若い頃の名)が庶民だった頃は死罪の吏さえ匿ったのに、天子となった今、一令すら通せぬのか」と述べた公主に、帝は「天子は庶民とは違う」と笑い、逆に宣を「強項令(頭を屈さぬ令)」と称え、褒賞を与えた。
- 以後、宣は豪強を厳しく取り締まり、京師は「臥虎」と呼び「太鼓は鳴らさずとも董少平が来る」と歌われた。5年の在任で74歳で官のまま没した。詔で使者が見舞うと、遺体は布で覆われ、妻子が対座して泣くのみで、大麦数斛と敝れた車1台しか残っていなかった。帝は「董宣の廉潔は死んでこそ分かった」と悼み、二千石相当として艾綬を賜り大夫の礼で葬った。子は郎中となりのち斉相に至った。
樊曄(仲華)――「乳虎の穴に入るも冀県には入るな」
- 樊曄、字は仲華、南陽郡新野の人、光武帝と若くして交遊があった。建武初め侍御史に召され河東都尉として雲台に引見された。若き光武帝が新野で拘束された際、市吏だった曄が食を贈った縁があり、帝はこれを忘れず御食・乗輿服物を賜り「一笥の餌で都尉を得たな」と戯れた。
- 郡赴任後、大姓馬適匡らを誅討し盗賊を清め、揚州牧に遷り耕作・植樹の術を教えた。法に触れ軹長に左遷後、隗囂滅亡後の隴右不安を鎮めるため天水太守に拝され、申不害・韓非の厳法を好んで犯罪者を生かして獄から出さぬ政を敷いた。羌胡も畏れ夜の旅人が「これを樊公に」と道端に荷を置くほど道は治まったが、涼州では「勤労貧者よ、乳虎の穴には入っても冀の役所(天水)には入るな、大笑いすれば死を招く、樊府君に再び遭うことなかれ」と歌われた。14年の在任で官のまま没し、明帝は永平年間その治績を後世に及ばぬものとして家に銭百万を賜った。子の樊融は俊才ながら黄老を好み仕えなかった。
李章(第公)――塢壁の豪族を斬った陽平令
- 李章、字は第公、河内郡懐の人、5代二千石の家柄。厳氏春秋に通じ州郡吏を経て光武帝の大司馬府東曹属となり征伐に従った。光武帝即位後、陽平令に拝され、清河の大姓趙綱が塢壁を築き甲兵を備え害をなしていたのを、饗宴に招き手ずから斬り伏兵で従者も殺し、塢壁を急襲して破った。
- 千乗太守として盗賊の誅殺が過多として下獄・免職となったが、まもなく侍御史に召され、琅邪太守として北海安丘の大姓夏長思が太守処興を捕らえ営陵城に籠った事件で、郡境を出て兵を動かすことを禁じる規則を掾吏に諫められても「逆虜が郡守を脅すのを見過ごせぬ、賊討伐で死ぬなら悔いはない」と述べ自ら兵を率いて城を落とし長思を斬り牛馬500余頭を得た。田の丈量の不正を問われ免官後、司寇(労役刑)に処されたが1か月余りで功により赦免され、再び召されるも病没した。
周紆(文通)――死体で不正を暴いた奇策
- 周紆、字は文通、下邳郡徐の人。刻削で情に薄く韓非の術を好んだ。永平年間、南行唐長として「私は情を捨てて豪猾を除く」と宣言し県中の悪吏数十人を処刑、博平令として姦臓を厳しく糾した。斉相として厳酷な政を続けたが条教(法令)を巧みに整え州の模範とされたのち再び博平令に降格、建初年間に勃海太守となった。
- 赦令が下るたびに隠れて先に判決を下してから公表する強引さもあったが、廷尉に問われ免官。清廉で資産がなく、自ら墼(土塀)を築いて生計を立てるほどで、章帝はこれを憐れみ郎に復した。召陵侯相の際、廷掾(属吏)が紆の厳明を恐れ、死人の手足を切って役所前に置いて紆を陥れようとしたが、紆は死体の口・目に稲の芒(籾殻の毛)があるのを見抜き、藁を城内に運んだ者を尋ねて廷掾を割り出し、拷問で自白させ、以後誰も紆を欺けなくなった。
- 洛陽令に召された際、着任早々に大姓の名を尋ねる吏に「馬氏・竇氏のような貴戚を聞いているのだ、それが分からずして役人が務まるか」と怒鳴り、以後吏は貴戚にも厳しく臨み、京師は粛清された。皇后の弟・黄門郎竇篤が夜に姦亭を通った際、亭長霍延が制止し、篤の従者と争いになり延が剣を抜いて篤を罵ったが、篤の訴えで紆は司隷校尉・河南尹に召され尚書に譴責、剣戟士に捕らえられ廷尉獄に送られたが数日で赦された。帝は紆が法に忠実で姦を憎むことを知りつつも苛刻に過ぎることを問題視し、建初8年(83年)免官。
- のち御史中丞に復したが、和帝即位後、太傅鄧彪が「紆は過酷で京師の統治に不適」として弾劾し免職。竇氏が権勢を振るい始めると、紆は自身への報復を恐れ門を閉ざして構えたが、竇篤兄弟は紆の公正さを認めていたため害を加えなかった。永元5年(93年)御史中丞に再召され、竇氏誅滅後もなお夏陽侯竇瓌が朝にとどまっていることを憎み上疏、臧文仲の故事(礼ある君には孝子のように仕え、無礼な君には鷹鸇のように誅する)を引き、瓌の軽薄・非経術・私講舎の設立・封禅の偽書などを弾劾し「涓流も積もれば大河となり、爝火も微小ながら野を焼く、呂産の乱・王莽の簒逆の禍を思い起こすべき」と訴えた。まもなく瓌が国に帰され紆は司隷校尉に遷った。永元6年(94年)旱魃の中、帝が洛陽に自ら幸して囚人を検分した際、収監者2人が虐待で蛆が湧いていたことを問われ騎都尉に左遷、7年(95年)将作大匠、9年(97年)官のまま没した。
黄昌(聖真)――再会した妻の逸話
- 黄昌、字は聖真、会稽郡余姚の人。孤微の出だが学宮に近く住み諸生の礼を見て学問を志し、法文にも通じ郡の決曹となった。刺史に認められ従事に辟され、宛令として厳猛な政を敷き、車蓋を盗んだ者を密偵で捕らえ大姓一族を粛清、人々に「神明」と称された。
- 蜀郡太守として、前任の李根の悪政による寃罪を糾し、訴え出た700余人の吏民を全て裁いた。密かに捕らえた盗賊の頭に諸県の豪暴の者の名を挙げさせ討伐、宿悪の姦徒は他境へ逃げた。
- かつて州書佐だった昌の妻が帰省中に賊に捕らわれ蜀に流されて人妻となり、その子が事件を起こして訴えに来た際、昌は母親の口ぶりが蜀人らしくないことを疑い問うと、「私は会稽余姚の戴次公の娘、州書佐黄昌の妻、賊に略奪されここに至った」と告げた。「なぜ黄昌と分かるのか」と問うと、「昌の左足裏には黒子があり、二千石になると自ら言っていた」と答え、昌が足を見せると二人は抱き合って泣き、夫婦に戻った。
- 4年の在任後、召還され陳相に遷った。県人の彭氏が高楼を建て、昌が巡行するたびに婦人が楼に登って見下ろすのを嫌い、収監して処刑した。河内太守、潁川太守を経て永和5年(140年)将作大匠、漢安元年(142年)大司農に進み、大中大夫に降格されて官で没した。
陽球(方正)――王甫を磔にした司隷校尉
- 陽球、字は方正、漁陽郡泉州の人。大姓の家柄で撃剣・弓馬に優れ厳厲な性で申不害・韓非の学を好んだ。郡吏が母を辱めた際、少年数十人を集めその吏の一家を滅ぼし名を知られた。
- 孝廉に挙げられ尚書侍郎として故事に明るく処議は臺閣に信頼された。高唐令として過度な苛政で郡守に捕らえられたが赦免、司徒劉寵府で高第を得た。九江の山賊反乱を鎮める人材として太守に拝され、方略で凶賊を殄破、郡中の姦吏も誅殺した。平原相への転出教令では、高唐で悪を掃った過去を「桓公が管仲の矢傷を許し、高祖が季布の逃亡を赦した」故事に例え、過去を一切問わない旨を示しつつ「今後改めぬ者は容赦しない」と警告し、郡中は畏服した。
- 天下大旱の折、司空張顥の苛酷な長吏弾劾により免官対象となったが、九江での功により議郎、将作大匠に復した。尚書令として鴻都文学(宦官の推挙で学問を装う出世制度)の廃止を上奏し、「本来功もない小人が権貴に取り入り像を描かれ賛を立てられるのは、天下に嗤われる」と述べたが省みられなかった。
- 中常侍王甫・曹節らの専横に「私が司隷校尉になれば、こやつらは許さない」と発憤していた球は、光和2年(179年)司隷校尉に任じられると、休暇中の王甫を糾弾する上奏をし、甫と中常侍淳于登・袁赦・封莫大羽・中黄門劉毅・小黄門龎訓・朱禹・斉盛ら、およびその子弟の守令の罪状、太尉段熲の阿附の罪を訴え、皆を洛陽獄に送った。球自ら拷問に臨み、甫の子で少府の萌が「父子共に死罪ならせめて拷問だけは緩めてほしい」と乞うと、球は「お前の父の罪状にはこれでも足りぬ、なぜ緩めよと言えるのか」と答え、萌は「お前は昔父子に奴のごとく仕えていたくせに主を裏切るのか」と罵ったが、口に土を詰められ杖で打たれ父子共に死んだ。段熲も自殺、甫の屍は夏城門に磔にされ「賊臣王甫」の榜文が掲げられ、財産は没収、妻子は比景に流された。
- 続いて曹節らも糾弾しようとし中都官従事に「大猾から順に案じる」よう命じると、権門は皆奢侈の品を隠し京師は畏震した。皇族の喪儀の帰路、曹節は磔にされた甫の屍を見て涙し「我々は互いに食い合ってもよいが、犬に汁を舐めさせるべきではない、今のうちに宮に入り里舎に留まらぬように」と発言、直ちに帝に「陽球は元来酷暴な吏、九江の小功で登用されたが過ちを重ね妄動する、司隷にとどめるべきでない」と訴え、球は衛尉に遷された。
- 球が陵墓を参拝している間に節は召拝の詔を急がせ、召しに応じた球が帝に「清高の行いはないが鷹犬の任を蒙り、王甫・段熲を糾しても狐狸を落とした程度で天下に示すには足りない、1か月の猶予をいただければ豺狼鴟梟を必ず討ちます」と頭を打って血を流しながら訴えたが、殿上で「衛尉は詔を拒むのか」と叱責され、幾度も繰り返して拝命に至った。その冬、司徒劉郃と共に張讓・曹節の弾劾を謀ったが、節らに先んじて誣告され、球は洛陽獄に送られ処刑、妻子は辺境に流された。
王吉――王甫の養子の残虐
- 王吉、陳留郡浚儀の人、中常侍王甫の養子(甫は宦者伝にある)。若くして書伝を好み名声を誇りつつ性は残忍。父の権勢を背景に20余歳で沛相となり、政事に明るく疑獄を裁く一方、姦吏・豪人を郡内に挙げさせ、数十年前の些細な過失にも遡って貶め、専ら剽悍な吏を選んで法を無視した処断を行った。子を生んで育てぬ者はその父母を斬り土に埋めるほどの苛烈さで、殺人者は皆屍を車上に磔にして罪目を掲げ属県に示し、夏には骨を紐で連ねて郡中を巡らせ見せしめとした。5年の在任で1万余人を殺し、他の残虐も数え切れず、郡中は誰も自分の安全を保証できないほど恐れた。陽球が王甫を弾劾した際、共に捕らえられ洛陽獄で死んだ。
史論
- 上古は敦厚で善悪の区別が容易く、罪人に異服(画象の刑)を着せるだけで犯す者がなかった。末世は上下が互いに欺き合い、徳義や教化が及ばず、厳刑をもって断罪するしかなくなり、酷烈な吏が生まれた。漢の世の「酷能」と呼ばれた者たちは、剛胆で機敏に文理に通じ、風のように行い霜のように激しく、威名を轟かせた点で、道を守る凡庸な吏とは異なる働きをした。しかし厳延年が黄霸の寛政を嗤い、密県の民が卓茂の緩政を笑った故事のように、厳しさが窮まってもなお及ばぬこともある。朱邑が民に笞辱を加えず、袁安が誣告を厳しく糾さずとも人々が自然に法を犯さなかったように、仁信の道が人心に信を得れば、威をもって強いる法とは別の効果が生まれる。仁を頼む者は威が緩めば姦を犯すが、感化を受けた者は治者が去っても慕い続ける。一邦の話を天下に敷衍すれば、刑訟の少ない世が実現できるだろうか、と評した。
賛
- 大道が去れば刑礼は薄くなり、人は散じて機詐が生まれる(老子・論語の言葉を引く)。殺すことをやめ仁で寛容を済すのが本道で、暴虐を用いることではない。末端の暴に頼れば一時は勝てても、本(徳治)を崇める道は疎かになる、と評した。