後漢書卷一百三 劉虞公孫瓚陶謙列傳第六十三 陶謙

徐州の混乱と黄金仏塔

  • 陶謙、字は恭祖、丹陽の人。若くして州郡に仕え、4遷して車騎将軍張温の司馬として辺章討伐に従った。徐州で黄巾が起こると徐州刺史となり大破して境内を平穏にした。董卓誅殺後、李傕・郭汜の乱で四方の道が断たれる中、幾度も密使を長安に送り貢を奉じたことから徐州牧・安東将軍・溧陽侯に加封された。
  • 徐州は民が殷盛で穀物豊かであったため流民が多く帰したが、謙は人を見る目に乏しく刑政を乱した。別駕従事の趙昱は名士でありながら忠直ゆえに疎まれ広陵太守に出された一方、曹宏ら讒慝の小人を厚く重用したため良善が多く害され、下邳の閻宣が自称天子を名乗った際も一時これと結び、のちに殺してその衆を併合した。
  • 曹操の父・曹嵩が琅邪に避難していた際、謙配下の将が陰平を守っていたが嵩の財宝を狙い襲殺した。初平4年(193年)曹操は謙を攻め彭城・傅陽を破り、謙は郯に退いたが操は落とせず撤退の途上、取慮・睢陵・夏丘を屠り、男女数十万人を殺し鶏犬も残さないほどの惨状となり、5県は無人となった。三輔からの避難民で謙を頼った者もことごとく殲滅された。
  • 興平元年(194年)操が再び琅邪・東海諸県を平定すると、謙は丹陽への逃亡を図ったが、張邈が呂布を迎えて兗州を占拠したため操が撤退、その年のうちに謙は病死した。
  • 同郡の笮融は数百人を率い謙に頼り、広陵・下邳・彭城の兵糧輸送を任されたが、これを断ち三郡の物資を横領して巨大な浮屠寺(仏塔)を建て、黄金の像に錦綵を着せ、灌仏(仏像に湯を注ぐ儀礼)のたびに万余人に食事を振る舞う豪奢を極めた。曹操が謙を攻め徐州が乱れると、融は男女1万口・馬3千匹を連れて広陵に逃れ、広陵太守趙昱にもてなされたが、酒宴に乗じて昱を殺し掠奪、江を渡って豫章に走り太守朱皓を殺してその城を奪ったが、のちに揚州刺史劉繇に破られ山中に逃れて殺された。趙昱、字は元達は琅邪の人で清廉潔白、太僕种拂に方正で推挙された人物であった。

  • 襄賁侯(劉虞)は徳を励まし辺境の守りとなり、仁を下に及ぼし忠で国を衛った。伯珪(公孫瓚)は粗獷ながら武才に富み俊敏であった。虞は終わりのない仁を好み、紹の勢力とは並び立たなかった。徐方(徐州)は殲耗し、陶謙が禍の元となった、と評した。