後漢書卷一百三 劉虞公孫瓚陶謙列傳第六十三 公孫瓚

「白馬義従」の猛将、易京に滅ぶ

  • 公孫瓚、字は伯珪、遼西郡令支の人。代々二千石の家柄だが母の身分が低く郡の小吏となった。容貌美しく声も大きく弁舌に優れ、太守がその才を認め娘を娶らせた。涿郡の盧植に緱氏山で学び、上計吏に挙げられた際、太守劉君が罪に問われ檻車で送られる中、規則で従吏が許されなかったにもかかわらず瓚は服を変え侍卒を装い、自ら車を御して洛陽に赴いた。太守が日南への流罪と決まると、瓚は北芒で先祖を祭り「子として臣として日南に行かねばならぬが、瘴気の地ゆえ帰れぬかもしれぬ」と涙ながらに拝礼し、周囲を感嘆させた。道中で赦免があり瓚は郡に戻った。
  • 孝廉に挙げられ遼東属国長史となり、数十騎で塞外を巡視中、鮮卑数百騎に遭遇した際、空き亭に退いて「今逃げねば全滅する」と言い、自ら両刃の矛を執って突撃、数十人を殺傷、半数の犠牲を出しながらも脱した。中平年間、烏桓突騎の督として車騎将軍張温の涼州討伐に従い、烏桓の反乱と張純らの薊侵攻に対応、追討の功で騎都尉に遷った。
  • 張純が丘力居らと漁陽・河間・勃海・平原を侵した際、瓚は石門で大破し捕虜を奪回したが、深入りしすぎて丘力居らに遼西の管子城で200余日包囲され、兵糧が尽き馬・弩・楯まで煮て食う極限の戦いを強いられ、多くの犠牲を出しつつ辛くも脱した。降虜校尉に拝され都亭侯に封じられ、属国長史も兼ねた。
  • 瓚は敵襲のたびに憤怒し復讐に燃えて追撃し、夜戦も辞さなかったため、虜は瓚の声を聞くだけで恐れた。善射の士数十人を「白馬義従」として左右翼に置き、烏桓は互いに「白馬長史を避けよ」と伝え合い、瓚の姿を描いた的を射て的中すれば万歳を叫んだという。烏桓はこれ以降、塞外に遠ざかった。
  • 瓚は烏桓の殲滅を志したが、劉虞は恩信による招降を望み、両者は対立した。初平2年(191年)青徐黄巾30万が勃海に入り黒山と合流しようとした際、瓚は歩騎2万で東光南で迎撃し3万余級を斬り、渡河中の残党も破って数万を殺し、7万余の捕虜を得て威名を大いに轟かせ、奮武将軍・薊侯に封じられた。
  • 瓚は虞が兵を袁術に送ろうとしたのを妨げた恨みを術に知られることを恐れ、従弟の公孫越に千余騎を率いさせて術と結ばせたが、越は術の将孫堅に従い袁紹の将周昕を攻めた際に流れ矢で戦死した。瓚はこれを紹の責と怒り、槃河に出兵、上疏して紹の十の罪を弾劾した。
  • 何進のもとで丁原に孟津を焼かせ董卓の乱の端緒を作った罪。
  • 董卓に帝が拘束されても謀を用いず、節伝を棄てて逃亡した罪。
  • 討卓のため父兄に告げず勃海太守就任時に太傅袁隗ら一族を京師で誅殺させた不仁不孝の罪。
  • 挙兵2年、国難を顧みず物資を貪り百姓に重税を課した罪。
  • 韓馥から州を奪い偽の印璽を作り詔書と偽った僭越の罪(王莽の簒奪への道を示すもの)。
  • 占い師に賄賂を贈り吉日を選んで郡県を掠奪させた罪。
  • 虎牙都尉劉勲を降した張楊に酷い扱いをした讒言に基づく罪。
  • 上谷太守高焉・甘陵相姚貢を貪欲な取り立てで死に追いやった罪。
  • 卑賤な母から生まれながら高位を貪った罪。
  • 長沙太守孫堅の董卓討伐の功を横取りし糧道を断って討伐を遅らせた罪。
  • 瓚は斉桓公・晋文公の覇業を引き「奉辞伐罪」として紹討伐を宣言、冀州の諸城は瓚に靡いた。紹は勃海太守の印綬を従弟の公孫範に与えて結ぼうとしたが、範は逆に紹に背き瓚を助けた。瓚は青・冀・兗三州刺史を自ら任命し、界橋で紹と大戦したが敗れ薊に退いた。紹の将崔巨業の攻撃を撃退した際は巨馬水で7、8千を斬り、勝ちに乗じて平原まで南進し青州刺史田楷に斉地を守らせた。紹軍との対峙は2年に及び、双方疲弊し百姓を掠奪する事態となった。紹は子の袁譚を青州刺史に送り田楷を破った。
  • この年、瓚は劉虞を破り幽州全域を得て、志はますます高くなった。かつて「燕南垂、趙北際、中央不合大如礪、唯有此中可避世」(燕の南、趙の北の狭い地こそ避難の地)との童謡があり、瓚は易県をこれに当たると考え本拠を移し、易河に沿って数十の楼観を築いた。
  • 劉虞の旧従事鮮于輔らは瓚への報復を図り、燕国の閻柔を烏桓司馬に推し、胡漢数万を招き瓚の任じた漁陽太守鄒丹を潞北で破り4千余級を斬った。烏桓峭王も虞の恩に感じ、7千騎で輔に合流、虞の子・劉和や袁紹の将麴義とも連合し10万で瓚を攻め、興平2年(195年)鮑丘で瓚を破り2万余級を斬った。
  • 瓚は易京に籠って屯田を開き自給を図った。麴義軍は兵糧が尽き敗走、瓚はその輜重を得た。旱蝗で穀物が高騰し人が人を食う中、瓚は才力を恃み民を顧みず、恨みは決して忘れず些細な仕返しも欠かさず、士人にも法で害を加え、寵臣は商人や卑しい者ばかりであった。代郡・広陽・上谷・右北平の民は瓚の任じた長吏を次々殺し、輔と再結集した。
  • 瓚は不安から高い塁に籠り、鉄の門を設け7歳以上の男子を易門に入れず、姫妾のみを侍らせ、文書はすべて綱で吊り上げさせ、婦人に大声を訓練させて数百歩先まで命令を伝えさせるなど、賓客・謀臣から孤立していった。攻撃を控える理由を問われると「昔は塞外の胡を追い黄巾を孟津で掃ったが、今の情勢は自分の手に負えない、兵を休め耕作に努めて凶年を凌ぐ方が良い、百楼は攻められぬというが自分の陣営には千里に及ぶ楼櫓と300万斛の蓄えがある、これで天下の変を待つ」と語った。
  • 建安3年(198年)袁紹が再び大攻勢をかけると、瓚は子の続に黒山の諸帥へ救援を求めさせ、自らは突騎で紹の背後を突こうとしたが、長史関靖が「今の兵は瓦解寸前だが老小を思い将軍を頼みに耐えている、堅守すれば紹が自ら退くかもしれない、出撃して後方の重鎮を失えば易京は忽ち危うくなる」と諫め、瓚は思いとどまり三重の営を築いて固めた。
  • 建安4年(199年)春、黒山賊帥張燕と続が10万の兵で3道から救援に向かう中、瓚は密使に書を持たせ「周末の乱世の惨状もかくやという状況だ、袁氏の攻めは鬼神の如く、自分は日々窮まっている、お前は張燕に急を告げ父子の情で助けを求めよ、私は5千の鉄騎を伏せておく、狼煙を合図に自ら出て決戦する」と続に伝えたが、紹はこの使者の書を捕らえ、期日通りに狼煙を上げさせて瓚を欺いた。瓚は救援到来と誤認して出撃、紹の伏兵に大敗し小城に籠った。
  • 瓚は全滅を悟ると、姉妹・妻子を縊り殺してから自ら火を放って焼身した。紹兵が台に登り首を斬った。関靖は瓚の敗死を聞き「先に自分が止めなければ将軍は自ら出て活路を開けたかもしれない、君子は人を危地に陥れたなら共に難に殉ずるべき」と嘆き、馬を紹軍に駆けさせて戦死した。続は屠各に殺され、田楷は袁紹との戦いで戦死。鮮于輔は部衆を率いて曹操に降り度遼将軍・都亭侯に封じられ、閻柔も曹操の烏桓討伐に従い護烏桓校尉・関内侯となった。張燕も紹に敗れたのち勢力が衰え、操が冀州平定に向かうと鄴に降り北平将軍・安国亭侯に封じられた。

史論

  • 帝室王公の裔は往々にして豊かな環境に育ち行いを律する者は稀だが、劉虞は道を守り名を慕い忠厚を旨とした、まさに漢末の名宗子であった。もし虞と瓚が隔てなく力を合わせ、燕薊の豊かさを保ちつつ武を整え群雄の隙をうかがっていれば、古の英傑にも劣らぬ功業を成せたかもしれない、それが実現しなかったのは天運というより人事の巡り合わせであったと評した。