後漢書卷一百三 劉虞公孫瓚陶謙列傳第六十三 劉虞

北方を治めた仁徳の宗室

  • 劉虞、字は伯安、東海郡郯の人。祖父の嘉は光禄勲。孝廉に挙げられ幽州刺史に遷ると、鮮卑・烏桓・夫餘・穢貊まで随時朝貢し辺境を騒がす者がなくなるほど徳化を及ぼし、民に歌われた。公事で免官後、中平初め黄巾の乱で冀州が破られると甘陵相となり、蔬食倹約を旨として荒廃を鎮撫、宗正に遷った。
  • 車騎将軍張温の辺章討伐に幽州烏桓突騎3千が動員されたが、軍糧の未払いで反抗し帰国、前中山相張純が前太山太守張挙に「烏桓の反乱、涼州の乱、両頭児の異変は漢祚の衰えと二人の天子の出現を示す」と説き挙兵を勧め、挙はこれに乗った。
  • 中平4年(187年)、純らは烏桓の大人らと連盟し薊を攻め、護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守陽終らを殺し10余万で肥如に屯した。挙は「天子」を、純は「彌天将軍安定王」を自称し、烏桓峭王らの歩騎5万が青・冀二州を侵した。朝廷は威信の篤い虞を再び幽州牧に任じ、虞は薊に着くと屯兵を減らし恩信を広げ、峭王らに寛大な赦しを告げ、純の首に懸賞をかけた。純は塞外に逃れ、余党は降散、純は客の王政に殺され首は虞のもとに送られた。霊帝は使者を遣わし太尉・容丘侯に封じた。
  • 董卓の専政下、大司馬に任じられ襄賁侯に改封。初平元年(190年)太傅袁隗に代わり召されたが道が塞がれ赴任できなかった。幽州は塞外への支出が大きく、青・冀の賦調2億余を毎年割いて充てていたが、輸送が途絶える中、虞は寛政で農耕を勧め、上谷の胡市の利や漁陽の塩鉄の富を開き、穀物価格を安定させた(1石30銭)。青徐から黄巾を避けて帰した民は百余万口に及び、虞はこれらを温恤し安んじた。虞自身は三公の位にありながら質素を貫き、粗衣縄履で肉も重ねて食べず、豪奢な士も改心して心服したという。
  • 公孫瓚に烏桓討伐を命じつつ虞の節度に従わせたが、瓚は徒衆を集め部曲に百姓を侵させる一方、虞は仁愛の政を重んじたため両者は次第に不和になった。初平2年(191年)冀州刺史韓馥・勃海太守袁紹ら山東諸将が、幼帝が董卓に迫られ消息も知れぬ中、宗室の長者である虞を天子に立てようと使者を送ったが、虞は「天下が崩乱し主上が蒙塵している今こそ君らは力を合わせ王室に尽くすべきなのに、逆に叛謀を企てて私を辱めるのか」と激しく叱り拒絶、韓馥らの尚書事代行の要請も拒み使者を斬った。
  • 掾の右北平田疇、従事の鮮于銀を長安に密使として送り、献帝への忠誠を示すと、東帰を望んでいた献帝は大いに喜んだ。虞の子・劉和は侍中として武関から脱出し虞に兵の派遣を求めさせたが、南陽で後将軍袁術に事情を知られ人質にされた。公孫瓚は術の欺瞞を見抜き虞に出兵を止めるよう勧めたが虞は従わず、瓚は密かに術に和の捕縛を勧め兵を奪わせ、これにより虞と瓚の仇怨はさらに深まった。和はのちに術のもとから逃れたが袁紹に留められた。
  • 瓚が幾度も紹に敗れながら攻撃をやめないのを、虞は「黷武」(無節操な戦争の乱用)として憂え、瓚の望みを制御できなくなることを恐れて出兵を許さず、糧秣の供給を制限した。瓚は怒って命令に違反し百姓を侵し続け、虞が胡夷への贈答に用いる品も奪った。両者は互いに罪状を訴える上奏を朝廷に送り続け、朝廷は判断を避けた。瓚は薊城に「京」(高い防塁)を築いて虞に備え、虞が幾度も瓚を召しても病と称して応じなかった。
  • 虞は瓚討伐を密議したが、東曹掾右北平の魏攸が「天下は今公(虞)を頼みとしている、瓚の才は捨てがたい」と諫めて一旦止まったが、攸の死後、初平4年(193年)冬、ついに諸屯兵10万を率いて瓚を攻めた。従軍中の代郡程緒が「瓚の罪はまだ明白でない、まず告げて改めさせるべき、内輪の争いは国の利にならない」と諫めたが、虞は軍紀を示すためこれを斬った。
  • 州従事公孫紀が同姓の誼で瓚を厚遇されていたことから、夜に虞の謀を瓚に密告した。瓚は部曲が散っており当初恐れたが、虞の軍が戦に不慣れで民家を焼くことも禁じたため攻めきれず、瓚は精鋭数百を選び風に乗じて放火し突撃、虞を大破した。虞は官属と共に居庸県へ北走したが、瓚は3日で城を陥落させ虞と妻子を捕らえ薊に連れ帰った。
  • 天子の使者段訓が虞の封邑を加増し六州の督を命じ、瓚は前将軍・易侯・仮節・幽并青冀の督に任じられると、瓚は虞が袁紹らと尊号を称そうとしたと誣告し、段訓を脅して薊市で虞を斬らせた。刑の前、瓚は「もし虞が天子となるべき人物ならば天は風雨で救うだろう」と呪ったが、その時は炎暑で雨は降らず、虞は斬られた。故吏の尾敦が道中で首を奪い返し葬った。瓚は段訓を幽州刺史に据えた。
  • 虞は恩厚で民心を集めており、北州の百姓は流民までもがその死を惜しんだ。虞が生涯質素を貫き敝れた冠を繕って使い続けていたにもかかわらず、殺害の際に瓚兵が邸内で妻妾の羅紈(絹織物)の華美な装いを見て人々に疑いを抱かせたという。和はのちに袁紹に従い瓚への報復に加わった。