後漢書卷一百二 董卓列傳第六十二 董卓(仲穎)
董卓、字は仲穎、隴西郡臨洮の人。若くして羌の地で豪帥と結び、対羌戦で武名を上げて涼州の兵権を掌握、霊帝没後に洛陽へ入って少帝を廃し陳留王(献帝)を立て、相国として専権を極めた。長安遷都を強行し洛陽を焼き払う暴虐の末、王允・呂布に誅殺された。死後も部将李傕・郭汜らの内紛が続き、献帝は長く流浪を強いられた。
年表(14件)
- 中平3年(186年)張温が太尉に任じられ、地方官が三公に就く先例となった
- 中平5年(188年)前将軍として皇甫嵩と共に、陳倉を囲む王国の軍を破った
- 中平元年184年盧植に代わり東中郎将として張角を下曲陽で討つも敗れ、罪に問われた
- 中平6年(189年)少府への召しに応じず、河東に留まり情勢を伺った
- 中平6年(189年)何進の召しに応じ洛陽入りし、少帝を廃して陳留王(献帝)を立てた
- 初平元年(190年)山東の義兵蜂起を受け弘農王を鴆殺し、長安遷都を図った
- 初平3年(192年)王允・呂布らの謀により誅殺された
- 興平元年(194年)馬騰が李傕に反旗を翻したが敗れた
- 建安元年(196年)帝が洛陽に還った
- 建安3年(198年)李傕が討伐され三族もろとも滅ぼされた
- 建安4年(199年)張楊が部将楊醜に殺された
- 建安7年(202年)馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任じた
- 建安11年(206年)馬超が韓遂と挙兵するも敗れ、馬騰は三族を誅された
- 建安19年(214年)楊阜が馬超を破り、涼州が悉く平定された
出自と羌胡での名声
- 董卓、字は仲穎、隴西郡臨洮の人。性は粗猛で謀があり、若くして羌の地に遊び豪帥と結んだ。帰農後も訪ねてきた豪帥のために耕牛を殺してもてなし、その厚意に感じた豪帥たちが千余頭の家畜を集め贈った逸話が伝わる。健俠で知られ州の兵馬掾となり、桓帝末には六郡良家子として羽林郎に選ばれ、中郎将張奐の軍司馬として漢陽の叛羌を討ち破り、郎中に拝され縑9千匹を賜ったが「功を為すのは自分でも、共に有するのは士だ」と述べ、すべて吏兵に分け与えた。
対羌戦から中郎将へ
- 西域戊巳校尉、并州刺史、河東太守を歴任。中平元年(184年)東中郎将持節として盧植に代わり張角を下曲陽で討ったが敗れて罪に問われた。その冬、北地の先零羌や枹罕・河関の群盗が反乱し、湟中義従胡の北宮伯玉・李文侯を将軍に立て護羌校尉泠徴を殺し、金城の辺章・韓遂を強いて軍政を執らせ、金城太守陳懿を殺して州郡を攻めた。
- 翌春、章・遂らが数万騎で三輔に侵入し宦官誅殺を名目に園陵を脅かすと、卓は中郎将として左車騎将軍皇甫嵩の副として征討に向かったが、嵩が功を上げられず免職。朝廷は司空張温を車騎将軍、執金吾袁滂を副とし、卓は破虜将軍として盪寇将軍周慎らと共に温の下、歩騎10余万を率いて美陽に屯し章・遂と対峙した。
- 苦戦の中、11月の夜に流星が現れ驢馬が鳴きやまず、賊は不吉として金城への撤退を図った。卓と右扶風鮑鴻らはこれに乗じて大破し数千級を斬った。章・遂は榆中に敗走。温は周慎に3万を与え追討させたが、参軍事孫堅の「賊の兵糧を断てば戦わずして討てる」という進言を用いず包囲戦に終始した結果、章・遂に糧道を断たれ撤退を余儀なくされた。
- 温はまた卓に3万を与え先零羌討伐に向かわせたが、望垣で羌胡に包囲され糧食が尽き、堰を偽装して魚取りを装いつつ密かに軍を渡した機知で全軍を保って撤退、他の軍が敗退する中、卓だけが軍を全うして帰り、斄郷侯に封じられ邑千戸を得た。
- 初平3年(192年に読み替え注意:原文は中平3年、186年)春、張温が太尉に任じられ三公が地方から中央に就く先例となった。冬、温は召還され、韓遂は辺章・伯玉・文侯を殺して10余万の兵を擁し隴西を包囲、太守李相如も反して遂と結び涼州刺史耿鄙を殺した。鄙の司馬・扶風の馬騰も反乱に加わり、漢陽の王国も自ら「合衆将軍」を称して韓遂らと結び三輔を侵した。
- 中平5年(188年)王国が陳倉を囲むと、卓は前将軍として左将軍皇甫嵩と共にこれを破った。韓遂らは王国を廃し、旧信都令の閻忠を諸部の統督に据えたが、忠は脅されたことを恥じて憤死し、遂らは権利を争い分裂した。
涼州牧の抵抗と朝廷召還の拒否
- 中平6年(189年)、卓は少府に召されたが応じず、湟中義従・秦胡兵が恩に慣れて離れがたい様子や自らの制御の限界を上書し、朝廷は憂慮しつつ手を出しかねた。霊帝が病篤くなると、璽書で卓を并州牧に任じ兵を皇甫嵩に委ねさせようとしたが、卓は再度上書し「10年間の統率で兵は自分になついている、彼らのため辺境で働かせてほしい」として河東に駐兵し情勢を伺った。
- 帝が崩じ、大将軍何進・司隷校尉袁紹が宦官誅殺を謀ったが太后が許さず、進が密かに卓を召して太后を脅そうとした。卓は召しに応じてすぐ出立し、「中常侍張讓らの姦悪を除く」ことを掲げる上書をし、趙鞅が晋陽の甲で君側の悪を逐った故事を引いて洛陽に向かった。
- 卓の到着前に何進は敗死し、虎賁中郎将袁術が南宮を焼いて宦官討伐を図ると、中常侍段珪らは少帝と陳留王を連れ夜に小平津へ逃れた。卓は遠くに火の手を見て急ぎ進軍、少帝を北芒で出迎えた。帝は卓の急な出現に恐れ涙したが、卓は言葉に窮しつつ、陳留王とは禍乱の経緯を語り合い、王の賢さと董太后に養われた縁から自らと同族であることに親近感を持ち、廃立の意を抱いた。
- 卓の当初の兵は3千に満たず、遠近を服させるには不足と考え、数日おきに夜密かに軍を出し翌朝旌鼓を並べて盛大に帰還する演出を繰り返し、洛陽の人々に西方からの援軍が続々到着していると思わせた。まもなく何進・何苗の旧部曲が卓に帰属し、呂布に執金吾丁原を殺させてその兵も併合し、卓の軍勢は大いに増した。
- 朝廷を動かし司空劉弘を策免して自らその地位を得た。廃立の議で百官を集め、「皇帝は闇弱で宗廟を奉じ天下の主となるにふさわしくない、伊尹・霍光の故事に倣い陳留王を立てる」と宣言、霍光の故事を引いて反対者を処断する構えを見せると座は震撼した。尚書盧植だけが「太甲は不明でも罪はさほどでなかったが桐宮に放たれたに過ぎない、昌邑王は千余の罪過があってこそ廃立された、今上は若く失徳もない」と異を唱えた。卓は激怒したが、翌日改めて百官を集め太后を脅して少帝を弘農王に廃し、陳留王(献帝)を立てた。太后(何皇后)も「永楽太后(董太后)を虐げ憂死させた」との罪で永安宮に遷され、まもなく弑された。
相国就任と暴虐
- 卓は太尉・領前将軍事・仮節伝斧鉞虎賁に遷り、郿侯に改封された。司徒黄琬・司空楊彪と共に鈇鑕を帯びて陳蕃・竇武ら党人の名誉回復を上奏し人望を得ようとした。まもなく相国に進み、入朝も趨らず剣履を帯びたまま殿に上ることが許され、母は池陽君に封じられ丞・令が置かれた。
- 洛陽の富豪の邸宅から兵士が財物・婦女を掠奪する「捜牢」が横行し、人心は不安に陥った。何皇后の埋葬(文陵)に際し副葬品を盗み、公主を姦し宮人を掠め、些細な咎で虐刑を加え、陽城では社での集会をしていた人々をことごとく斬り、頭を車轅に懸けて歌いながら帰った逸話が伝わる。五銖銭を廃し小銭を鋳造、洛陽・長安の銅人・鍾虡・飛廉・銅馬まで溶かして充てたため、貨幣価値が崩壊し穀物は数万銭にまで高騰した。
- 一方で天下が宦官への憎悪を共有していることを知悉していた卓は、表向き忠良を装い、吏部尚書周珌・侍中伍瓊・尚書鄭泰(公業)・長史何顒らを登用し、処士荀爽を司空とし、党錮に染まった陳紀・韓融らも列卿に列した。韓馥を冀州刺史、劉岱を兗州刺史、孔伷を豫州刺史、張咨を南陽太守とするなど広く人材を用いたが、自身の親愛する者は将校職のみに留めた。
- 初平元年(190年)、韓馥ら10余人が袁紹と共に義兵を挙げ卓討伐の同盟を結ぶと、内応していた伍瓊・周珌が疑われた。折しも黄巾の残党・郭太らが西河白波谷で再起し河東を破ったことも重なり、卓は恐れて弘農王を鴆殺、長安遷都を図った。太尉黄琬・司徒楊彪が朝議で強く反対し、伍瓊・周珌も諫めると、卓は激怒し「二人が善士登用を勧めたから従ったのに、袁紹らが兵を挙げたのはこの二人に裏切られたからだ」と両名を斬った。彪・琬は謝罪し光禄大夫に留められた。
長安遷都と暴政の極み
- 天子は長安に遷された。赤眉の乱で焼失していた長安には高廟と京兆府舎しかなく、これを行宮とし、のち未央宮に移った。洛陽の数百万の民は長安まで強制移送され、飢餓と略奪の中、死屍が道を埋めた。卓自身は畢圭苑に留まり、洛陽の宮廟・官府・民家を200里四方にわたって焼き尽くし、呂布に諸帝陵と公卿の墓を暴かせて財宝を奪わせた。
- 長沙太守孫堅が豫州諸郡兵で卓を討つと、卓は徐栄・李蒙を先鋒に送り、栄は梁で堅を破り潁川太守李旻を捕らえて煮殺した。捕らえた義兵の兵士は布で包み逆さに立てて熱した膏を注いで殺した。河内太守王匡の伏兵も破られたが、翌年、孫堅は梁県陽人で反撃、卓の将胡軫・呂布の内紛に乗じて大破、卓自ら諸陵墓の間で戦い敗れて澠池に退いた。孫堅はさらに洛陽宣陽城門で呂布を破り宗廟を掃除、諸陵を修復した。
- 卓は長史劉艾に「関東の諸将は敗れ続けだが孫堅だけは侮れない、慎重に対処せよ」と語り、董越を澠池、段煨を華陰、牛輔を安邑に配して防備を固め、自らは太師に任じられて長安に戻り、車服も天子に準ずる僭上ぶり(金華青蓋・瓜画両轓、俗に「竿摩車」と呼ばれた)を示した。弟の旻は左将軍・鄠侯、兄の子の璜は侍中・中軍校尉となり、一族が要職を占め、幼子まで男は侯、女は邑君に封じられた。
- 長安城東に自らの塁を築き、さらに郿に高さ7丈の「万歳塢」を築いて30年分の食糧を蓄え、「事成れば天下に雄拠し、成らずともここで生涯を終える」と豪語した。公卿以下が横門外で送別の宴を開いた際、卓は投降した北地の反乱者数百人を宴席で殺し、舌を切り手足を斬り眼をえぐり鍋で煮るなど凄惨な処刑を見せながら平然と飲食し、居合わせた者を戦慄させた。関中の旧族も次々と誣告し反逆罪で処断した。
- 衛尉張温が卓に殺された。かつて温が涼州で章討伐に失敗した卓を召しても応じなかった経緯から恨まれており、天変を口実に市で笞殺された。孫堅は温にかつて「王師を率いる者が卓を恃みとする必要はない、穰苴が荘賈を斬った故事のように威をもって示すべき」と進言していたが、温は用いず、後にこの遺恨が禍を招いた。温の子・張伯慎も王允と誅卓を謀ったが未発に終わった。
- 越騎校尉伍孚は卓の凶毒を憤り、朝服に佩刀を隠して謁見し、辞去の際に刺そうとしたが失敗、捕らえられ「姦賊を都市で磔にできなかったのが恨みだ」と叫んで斃れた。
- 王允は呂布・僕射士孫瑞と卓誅殺を謀った。ある人が「呂」の字を書いた布を背負い市中で「布や布や」と歌う予言めいた行為をしたが卓は気づかなかった。初平3年(192年)4月、帝の病が癒えた祝賀の大会で、卓の乗る車の馬が驚き泥に落ちる不吉な兆しがあったが強行、王允は詔を偽造し士孫瑞に書かせて呂布に授け、騎都尉李肅らを衛士に偽装させ北掖門に配した。卓は門で馬が動かず不審に思ったが呂布に促され入り、李肅の戟を鎧で防いだものの腕を傷つけられ車から落ち「呂布はどこだ」と叫ぶと、布は「詔あり賊臣卓を討つ」と応じ、矛で刺し殺した。卓の主簿田儀と蒼頭も殺され、赦令が発せられると士卒は万歳を唱え、長安の民は道で酒肉を売り歓喜した。
- 皇甫嵩が郿塢で卓の弟・旻を攻め、母・妻・子女もろとも一族を滅ぼした。卓の遺体は市に晒され、暑さで脂が流れ出し、番人がへそに灯心を立てて燃やし、光は夜明けまで続いたという。袁氏の門生たちは卓一族の灰を路上に撒いた。塢中には金2、3万斤、銀8、9万斤、錦綺絹帛の珍宝が山のように蓄えられていた。
李傕・郭汜の乱と献帝の東帰
- 卓は娘婿で腹心の牛輔に陝の防衛を任せていたが、輔は校尉の李傕・郭汜・張済に数万の歩騎を与え河南尹朱儁を中牟で破り陳留・潁川を掠奪させた。呂布は李肅に詔をもたせ輔らを討伐させたが敗れ、輔は営中の異変を恐れ財宝を持って逃げようとし、部下に殺されその首は長安に送られた。
- 傕・汜らは王允・呂布による卓誅殺を恨み、并州出身者を数百人誅殺した。牛輔軍が瓦解し各自散逃しようとする中、傕らは長安に赦免を求めたが、王允は「一年に二度の赦しは許さぬ」と拒否。武威の賈詡は「涼州人を皆殺しにする議があると聞く、逃げても捕らえられるだけだ、むしろ結束して長安を攻め董公の仇を討ち、成れば国家を奉じて天下を正せる」と説き、傕らはこれに従い数千の軍で長安に向かった。
- 王允は卓の旧将・胡軫と徐栄を派遣したが栄は戦死、軫は降伏し傕に合流、10余万に膨れた軍で長安を包囲、8日で呂布軍内の叟兵(蜀兵)が内応し城は陥落、掠奪と殺戮で死者1万余人、衛尉种拂らが殺された。呂布は敗走、王允は天子を奉じて宣平城門楼に籠ったが、大赦を発しても囲みは解けず、司徒王允を出頭させる要求に応じ、数日後殺された。
- 傕らは卓を郿に改葬し、灰を集めて棺に納めたが、埋葬当日大風雨と落雷が墓を襲い流水が棺を漂わせるという異変が数度起こったと伝わる。
- 傕は車騎将軍・開府・領司隷校尉・仮節、汜は後将軍、稠は右将軍、張済は鎮東将軍となりいずれも列侯に封じられ、傕・汜・稠が朝政を執った。済は弘農に屯した。賈詡は左馮翊に任じられ侯に推されたが「これは救命の計に過ぎず功ではない」と固辞、尚書として選挙を司った。
- 大雨・洪水の被害の中、帝は御史裴茂に獄囚200余人の再審を命じたが、傕がこれを疑い茂を弾劾しようとしたところ、詔は「災異が続き恩沢を施すべき時に罪を着せてよいはずがない」として不問とした。
- かつて卓の関中入りに際し韓遂・馬騰も呼応していたが、興平元年(194年)馬騰が李傕に望みを拒まれ怒り、侍中馬宇・前涼州刺史种邵・中郎将杜稟らと連合して傕を攻めたが敗れ、种邵らは戦死、韓遂も加勢したが長平観下で大敗、稠らの追撃を受けたが、遂と稠が馬上で密談したことが疑いを招き傕・稠の間にも猜疑が生じた。
- 傕・汜・稠が開府し三公と合わせて六府が選挙に関与する体制となったが、長安では白昼の盗賊が横行、傕・汜・稠は城内を三分して支配したが子弟の横暴は止まなかった。穀物1斛50万銭、豆麦20万銭、人が人を食らうほどの惨状となり、白骨が路に満ちた。帝が侍御史侯汶に太倉の米豆で粥を作らせても餓死者は減らず、帝自ら検分すると不正が発覚、侯汶は杖50に処された。
- 翌年春、傕は宴席で樊稠を刺殺し、諸将の相互不信が深まった。傕・汜も互いに兵を構え、安西将軍楊定(もと卓の部曲将)は郭汜と結んで天子を自陣に迎えようとし、傕は甥の李暹に数千を率いさせ宮を包囲、車3乗で天子・皇后を強引に迎えた。太尉楊彪の抗議も虚しく、帝は傕の営に移され、乱兵が宮殿を掠奪し官府・民居を焼き払った。
- 帝は楊彪・司空張喜らに傕・汜の和解を図らせたが汜は応じず公卿を人質に取った。楊彪の詰問にも汜は激怒し彪を斬ろうとしたが周囲に諫められ思いとどまった。汜は傕を攻め、矢が帝の前にまで飛び傕の耳を貫くほどの激戦となったが、白波賊出身の楊奉が傕を救援し汜は退いた。傕は帝を北塢に移し、皇后・宋貴人以外との接触を断ち、猛暑の中で水も与えられず、宮人・侍臣は食物も持ち込めない状況に追い込まれた。傕はさらに池陽の黄白城への移送を図ったが司徒趙温の説得で断念した。
- 謁者僕射皇甫酈が傕・汜の和解を図り、汜は従ったが傕は「郭多(郭汜)は馬盗人に過ぎぬ、なぜ自分と同格を求めるのか」と拒み、公卿を人質にする傕自身の非を指摘されても激怒し、酈を虎賁の王昌に殺させようとしたが昌はわざと見逃した。
- 傕は自ら大司馬となり(鬼神や呪術を信じ、董卓のために神座を設け牛羊で祀るなど、迷信的な行為が多かったと伝わる)、郭汜との攻防は数か月に及び死者は万を数えた。張済が和解を仲介し、遷都と東帰を提言、帝も旧京への思いから東帰を求め、傕は10度の要請の末にようやく許した。
- 車駕は東へ出発。李傕は曹陽に屯し張済を驃騎将軍に、郭汜を車騎将軍に、楊定を後将軍に、楊奉を興義将軍に、旧牛輔部曲の董承を安集将軍に任じた。汜は再び帝を郿へ連れ去ろうとしたが楊定・楊奉・董承がこれを拒み、汜は自軍を棄てて傕に合流。車駕は華陰に至り、寧輯将軍段煨がすべての物資を用意して迎えようとしたが、楊定との旧怨から煨が謀反を企てていると誣告され攻撃を受けたが落ちなかった。太尉楊彪らが煨の忠誠を保証し、董承・楊定が功を主張する間、煨は御膳を絶やさず百官を養い続けた。
- 傕・汜は東帰を許したことを後悔し段煨を救援すると称して帝を西へ連れ去ろうとしたが、楊定は汜に阻まれ荊州に逃れ、張済は楊奉・董承と不和になり傕・汜と合流して車駕を追撃、弘農東澗で激戦となり、承・奉軍は大敗、婦女・輜重・御物・符策・典籍まで略奪された。射声校尉沮儁は傷を負い落馬し、李傕に「まだ助かるか」と聞かれると「お前たちは天子を脅迫する乱臣賊子だ」と罵り殺された。
- 帝は曹陽で野営、承・奉は傕らと偽って和睦しつつ密使を送り、旧白波帥の李楽・韓暹・胡才と南匈奴の右賢王去卑を招き、共に傕らを大破し数千級を斬って前進した。しかし董承・李楽が護衛する中、傕らは再び追撃し奉らは大敗、東澗以来の連戦で40里に及ぶ死者を出しながら陝に至り営を構えた。虎賁・羽林はもはや百人に満たず離反も相次いだ。
- 承・奉らは夜密かに黄河渡河を協議、楊彪・宗正劉艾の反対(三十六灘の難所を指摘)にもかかわらず、李楽を先に渡らせ火で合図し帝は歩いて岸まで進んだ。10余丈の高い岸を絹で縋って下り、他の者は岸を這うか身を投げるかして多くが死傷した。舟に殺到する者を董承が戈で払い、指を切り落とされ舟中に指が溢れたという。渡河できたのは皇后(宋貴人)・楊彪・董承・伏完ら数十人のみで、宮女の多くは傕の兵に奪われ凍死・溺死した。
- 太陽(県)の民家に落ち着いた後、李楽の営に移り、百官は飢え、河内太守張楊が数千人に米を運ばせて助けた。帝は牛車で安邑に都し、河東太守王邑の献上した綿帛を公卿以下に分与、王邑は列侯に封じられた。胡才は征東将軍、張楊は安国将軍に任じられ、いずれも仮節開府した。しかし諸将は勝手に官職を求め印を刻む余裕もなく錐で刻んだり、酒肉を持って天子と宴席を共にするなど、朝廷の威厳は地に落ちていた。
- 太僕韓融が弘農に赴き傕・汜と和解、傕は公卿百官・宮人・婦女・器物の一部を解放した。かつて関中に入った時数十万あった戸口は、傕・汜の相攻の後、長安城が40余日空になり、強者は四散し弱者は互いに食い合う惨状となり、2、3年にわたり関中に人跡が絶えた。
- 建安元年(196年)諸将の権力争いの中、韓暹が董承を攻め、承は張楊のもとへ奔り、楊は先に洛陽の宮殿を修理させていた。7月、帝は洛陽に還り陽安殿(張楊が自らの功として名付けた)に入った。張楊は「天子は天下と共にあるべき、朝廷には公卿大臣がいる、自分は外難に備えるべき」と述べて野王に戻り、楊奉も梁に屯した。張楊は大司馬、楊奉は車騎将軍、韓暹は大将軍・領司隸校尉に任じられ、暹と董承が宿衛を担ったが、暹は功を恃んで政事を専断し董承を悩ませた。
- 承は密かに兗州牧曹操を招き、操は入朝して韓暹・張楊の罪を上奏、暹は誅殺を恐れ単騎で楊奉のもとに逃げた。帝は暹・楊の護衛の功を問わないこととし、董承・伏完ら十余人が列侯に封じられ、沮儁は弘農太守を追贈された。
- 洛陽の荒廃を見た操は帝を許に遷した。楊奉・韓暹はこれを阻もうとしたが操に撃退され、袁術のもとへ奔って揚州・徐州で暴れた。翌年、左将軍劉備が楊奉を誘って斬り、韓暹も并州へ逃げる道中で殺された。胡才・李楽は河東に留まり、才は怨みを持つ者に殺され、楽は病死。張済は飢餓のため南陽の穣を攻めて戦死。郭汜は部将の伍習に殺された。
- 建安3年(198年)謁者僕射裴茂が関中諸将(段煨ら)に李傕討伐を命じ、傕は三族もろとも滅ぼされた。段煨は安南将軍・閺郷侯に封じられた。4年(199年)張楊は部将楊醜に殺された。董承は車騎将軍・開府となったが、以後実権は曹氏に帰し、天子は百官を備えるのみの存在となった。
- 帝は操の専権を憎み、密詔で董承に天下の義士を糾合し操を誅すよう命じた。承は劉備と謀ったが、備の出征後、偏将軍王子服・長水校尉种輯・議郎呉碩と謀を進める中で発覚し、承・服・輯・碩は皆操に誅殺された。
- 韓遂・馬騰は涼州に戻り互いに争い、隴を降りて関中に拠った。操は河北平定に専念しつつ、彼らが隙に乗じて乱を起こすことを恐れ、建安7年(202年)馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任じいずれも開府させた。段煨は大鴻臚に召されたが病死、馬騰も衛尉・槐里侯として召され応じたが、子の馬超が部曲を継いだ。
- 11年(206年、原文16年は誤記か)、超は韓遂と共に関中の兵を挙げ曹操に背いたが破られ、遂・超は敗走、騰は三族を誅された。超は涼州刺史韋康を攻め殺し隴右に拠ったが、19年(214年)天水の楊阜が超を破り、超は張魯に降ったのち劉備に降った。韓遂は金城の羌中に逃れ帳下に殺された。
- かつて隴西の宗建が枹罕で自ら「河首平漢王」と称し百官を置いて30余年に及んだが、操は夏侯淵を遣わしてこれを斬り、涼州は悉く平定された。
史論
- 董卓は虓闞(虎の怒り)を性とし、時代の崩壊に乗じて彝倫を踏みにじり畿服を破壊した。人の肝や足を刳るような残忍な性でも、なお縉紳を敬い遅疑逡巡する部分(鄭泰・蔡邕・何顒・荀爽らの登用を指す)があり、盗跖の「盗にも道あり」の逸話のような一片の理はあった。しかし残賊(李傕・郭汜ら)がこれを継いで山を倒し海を傾けるほどの禍を招き、崑岡の火のように玉石ともに焼かれ、詩経「板蕩」の乱世が極まった。人が生きることの難しさ、天地の不仁を痛感させる、と評した。
賛
- 百六の会(陽の厄年)が過ぎ大過が災いを成す時、董卓は天を滔らし三才(天地人)に逆らい、天下は崩れ沸き返った。皇京は煙埃に包まれ、無礼の報いはさらに広がった(矢が王輅に及び、兵が魏の宮闕を巡った、との喩え)。国家の秩序は傾き、人も神も動揺した、と評した。