後漢書卷一百一 皇甫嵩朱儁列傳第六十一 皇甫嵩

黄巾討伐の名将

  • 皇甫嵩、字は義真、安定郡朝那の人、度遼将軍皇甫規の兄の子。父の節は雁門太守。若くして文武の志を持ち詩書を好み弓馬に習熟した。孝廉・茂才に挙げられ、太尉陳蕃・大将軍竇武にも辟されたが応じず、公車の召しで議郎、北地太守に遷った。
  • 鉅鹿の張角が自ら「大賢良師」と称し黄老道を奉じ、跪拝首過(跪いて礼拝し過ちを告白する儀礼)と符水(お札を溶かした水)・呪説で病を治し、民の信を得た。8人の弟子を四方に遣わし10余年で数十万の信徒を得、青・徐・幽・冀・荊・揚・兗・豫の八州にわたり36の「方」(将軍号に准じる単位)を組織した(大方は1万余人、小方は6、7千人)。「蒼天已死、黄天当立、歳在甲子、天下大吉」の流言が広まり、京城の門や州郡の官府に「甲子」の文字が白土で書かれた。
  • 中平元年(184年)、大方の馬元義らが荊揚数万人を集め鄴で決起を謀り、中常侍封諝・徐奉らと内応を約した(3月5日の内外呼応の計画)が、決行前に張角の弟子・唐周の密告で発覚し、元義は洛陽で車裂きの刑に処された。霊帝は三府に案件を下し、宮省・百姓の関係者千余人を誅殺した。角は事の露見を知り、諸方に一斉蜂起を命じ、皆黄巾を標識としたため「黄巾」または「蛾賊」と呼ばれた。角は天公将軍、弟の宝は地公将軍、梁は人公将軍を称し、各地で官府を焼き払い、旬日のうちに天下が応じ京師も震動した。
  • 詔で州郡が守備を固め、函谷・大谷・広成・伊闕・轘轅・旋門・孟津・小平津の諸関に都尉が置かれた。群臣会議で嵩は党禁の解除と中蔵府の銭・西園の厩馬を軍士に施すことを提案し、帝はこれに従った。
  • 嵩は左中郎将持節として右中郎将朱儁とともに五校・三河騎士と募兵4万余を発し討伐に当たった。儁が先に賊将波才に敗れると、嵩は長社に退いて守り、包囲された。兵少なく軍中が恐れる中、嵩は「兵は奇変にあり、多寡によらない」と述べ、賊が草を結んで陣を張っているため火攻めに弱いと見抜き、風の強い夜に葦の松明を持たせ、外から精鋭に放火させ城上でも呼応の松明を掲げ、鼓を打って突撃、賊は驚き逃げ惑った。折しも騎都尉曹操の援軍が到着し、嵩・儁・操の連合軍が大破、数万級を斬り、嵩は都郷侯に封じられた。
  • 嵩・儁は勝ちに乗じ汝南・陳国の黄巾を討ち、波才を陽翟で、彭脱を西華で破り、東郡の卜已を倉亭で生け捕り7千余級を斬った。北中郎将盧植・東中郎将董卓が張角討伐で功を上げられなかったため、嵩に討伐が命じられ、角の弟・張梁と広宗で戦った。梁の兵は精強で当初勝てなかったが、賊の油断を見て夜襲を仕掛け大破、梁を斬り3万級を獲、河に投じて死んだ者5万人余、車重3万余両を焼き婦子を捕虜とした。角は既に病死しており、棺を開いて屍を戮し首を京師に伝えた。
  • さらに鉅鹿太守郭典と張角の弟・張宝を下曲陽で討ち、これも斬って10万余人を獲り、城南に京観(戦死者の塚)を築いた。左車騎将軍・領冀州牧に拝され槐里侯に封じられ、槐里・美陽の両県で邑8千戸を得た。黄巾平定を機に年号は中平と改められた。
  • 嵩は冀州の1年分の田租を饑民に施す上奏をし帝はこれに従った。民は「天下大乱、市は墟となり、母は子を守れず妻は夫を失った、皇甫(嵩)を得てようやく安居できた」と歌った。嵩は士卒を温恤し、行軍の際は必ず陣営を整えてから休み、兵が食べ終えてから自らも食した。賄賂を受けた属吏には逆に金品を与えて恥じ入らせ、自殺する者すらいたという。
  • 黄巾平定で威名は天下に轟いたが、朝政は乱れる一方であった。信都令の閻忠が嵩に「時は得難く失いやすい、天道は無親で有能な者に与する、将軍は難得の運を得て易駭の機を踏んでいる、これを活かさねば大名を保てない」と説き、韓信が漢王への恩義に縛られ機を逸した例を引きつつ、天子の権威が弱まった今こそ冀方の士を興し天命を示すべきだと促した。嵩は「昼夜公事に尽くし忠を忘れぬ、なぜ不安があろうか」と答え、閻忠は「不常の謀は常の勢では通じない、黄巾は秦項のような強敵ではなく、人心は主を忘れず天は逆を助けない、本朝に忠を尽くし臣節を守るのが良策だ」と諭す嵩の言葉を承け、「反常の論は聞くに堪えない」と嵩が拒んだため、忠は計が用いられぬと悟り去った(のちに梁州の賊王国に担がれ車騎将軍を号したが病死した)。
  • 辺章・韓遂が隴右で乱を起こすと嵩は長安に鎮じ園陵を守ったが、章らが三輔に再侵すると討伐が命じられた。かつて張角討伐の途上、鄴を通った際に中常侍趙忠の邸宅が制度を超えるのを見て没収を上奏し、中常侍張讓の5千万銭の私的要求も拒んだことで両者に恨まれ、戦功が乏しいと誣告され、召還されて左車騎将軍の印綬を没収、邑6千戸を削られ都郷侯・2千戸に格下げされた。
  • 中平5年(188年)梁州の賊王国が陳倉を囲むと、嵩は左将軍として前将軍董卓と各2万の兵で防戦にあたった。卓は急ぎ陳倉救援を主張したが、嵩は「百戦百勝は不戦にて敵を屈するに如かず、まず不敗の態勢を築いてから敵の隙を待つべき」との孫子の説を引き、陳倉は堅城であり守れば拔かれない、王国の兵力も攻撃には及ばないと判断し、救援せず持久策を取った。冬から春まで80余日、陳倉はついに落ちず、疲弊した王国軍は自ら退いた。
  • 嵩がこれを追撃しようとすると、卓は「窮寇は追うべきでない」と反対したが、嵩は「先に攻めなかったのは鋭気を避けたため、今攻めるのは衰えを待ったためだ、疲れた退却軍を攻めるのは窮寇追撃ではない」と反論、単独で追撃し、卓を後拒(後備)としつつ連戦大破、1万余級を斬り王国は逃走の末に死んだ。卓は大いに恥じ、嵩を忌むようになった。
  • 翌年、卓は并州牧に拝され兵を嵩に委ねる詔が下ったが従わなかった。嵩の甥・皇甫酈は「本朝が政を失い天下は倒懸の危機にある、危難を安んじられるのは大人(嵩)と董卓だけだ、卓は詔に反し兵を保持し上書して自ら乞う逆命を犯している、桓文の事業(覇者の大義)として卓を討つべき」と説いたが、嵩は「専命の罪はあっても専誅の責もある、朝廷の裁断に委ねるべき」として上書したのみに留めた。卓はこれをさらに恨んだ。
  • 卓が政権を握ると、初平元年(190年)嵩を城門校尉に召し殺そうとした。長史梁衍は「今の3万の精兵で長安に迎え天子を守り討逆の令を発すれば天下に兵を集められる、卓の東を袁氏が、西を将軍が挟撃すればこれを捕らえられる」と進言したが、嵩は従わず召に応じた。有司が卓の意を承け嵩を捕らえ誅殺しようとしたところ、嵩の子・皇甫堅寿が卓と旧知の間柄であったため長安から洛陽へ駆けつけ、卓の酒宴の場で大義を説き涙ながらに訴え、居合わせた者も感動して助命を請うたため、卓は嵩を赦し議郎に復した。
  • のち御史中丞に遷った。卓が長安に還る際、卓は御史中丞以下に嵩を跪拝させ屈させ「義真よ、服したか」とからかったが、嵩は笑って謝り和解した(かつて共に辺章・韓遂と戦った際、嵩が「明公がここまで至るとは」と言うと卓は「鴻鵠には元来遠志がある、燕雀が知らぬだけだ」と答え、嵩は「共に鴻鵠だったはずが、あなたは鳳凰になった」と返した逸話が伝わる)。
  • 卓誅殺後、嵩は征西将軍、さらに車騎将軍に遷り、その年秋に太尉を拝したが冬、流星(あるいは日の重珥)の異変で免官、光禄大夫に復し太常に遷った。李傕の乱の折、嵩は病で没した。驃騎将軍の印綬が追贈され、一族一人が郎に登用された。
  • 嵩は人柄が慎重で勤勉、上表で諫言した事項は500余件に及んだが、いずれも自ら草稿を破棄し外に漏らさなかった。士人には礼を尽くし、門前に客を留め置くことがなかったため、多くの人望を集めた。子の堅寿も名を知られ、のち侍中に召されたが辞退し病で没した。