後漢書卷一百 鄭孔荀列傳第六十 荀彧

曹操の謀主

  • 荀彧、字は文若、潁川郡潁陰の人、朗陵令荀淑の孫。父の緄は済南相で、宦官を畏れ彧を中常侍唐衡の娘と結婚させたため彧は当初の誹りを免れた。南陽の何顒は彧を見て「王佐の才」と評した。中平6年(189年)孝廉に挙げられ亢父令に遷ったが、董卓の乱で官を棄て帰郷。
  • 同郡の韓融が一族千余家を率いて密県の西山に避難していた際、彧は「潁川は四戦の地、密も小さく大難を防げない、早く避けるべきだ」と説いたが郷人は土地への未練で動かなかった。冀州牧の韓馥が騎兵を送ってきたため、彧は独り宗族を率いて馥のもとに移った。留まった郷人の多くは董卓の将李傕に殺された。彧が冀州に着く頃には袁紹が既に馥から地位を奪っていたが、紹は彧を上賓の礼で迎えた。彧は漢室崩壊を憂え匡佐の志を抱いていたが、紹では大業を成せないと見て初平2年(191年)曹操のもとへ移った。操は「わが子房(張良)だ」と喜び奮武司馬とした。時に彧29歳。
  • 鎮東司馬を経て興平元年(194年)操が陶謙を東征した際、彧は甄城の留守を任された。張邈・陳宮が兗州で反し呂布を密かに迎え入れた際、邈が彧を「呂将軍が陶謙討伐を助けに来る、急ぎ軍需を供出せよ」と欺こうとしたが、彧は変事を見抜き即座に守備を固め邈の計を挫いた。豫州刺史郭貢が数万の兵で城下に迫った際、彧が単身出向こうとするのを東郡太守夏侯惇らが止めたが、彧は「貢と邈らの結びつきは浅く、今動揺している間に説けば中立にできる、疑えば逆に貢を怒らせて謀に加担させる」と判断し赴いた。貢は彧に恐れる様子がないのを見て攻略を諦め去った。彧はさらに程昱を遣わして范・東阿を固めさせ、甄城・范・東阿の三城を守り抜いて操の帰還を待った。
  • 興平2年(195年)陶謙が死に、操が徐州を取ろうとした際、彧は「高祖が関中を、光武帝が河内を保って天下を制した先例のように、兗州は将軍にとって関河の要地であり、根本を固めずして東征すれば呂布に乗じられる」と諫め、麦の収穫を確保する策を説いた。操はこれに従い、麦を収めて呂布を破り兗州を平定した。
  • 建安元年(196年)献帝が洛陽に還ると、操は許への遷都を議したが、山東未平定や韓暹・楊奉の跋扈を懸念する声があった。彧は「晋文公が周襄王を迎えて諸侯を従え、高祖が義帝のため喪に服して天下の心を得た」故事を引き、「今こそ天子を奉じて人望に従うのが大順、公にあるのが大略、英雄を招くのが大徳、四方に逆節があっても恐れるに足らぬ」と説き、操はこれに従い遷都を実現、彧は侍中・守尚書令となり、以後の征伐でも軍国の事を彧と謀った。
  • 彧は荀攸・鍾繇・郭嘉・陳羣・杜襲・司馬懿・戲志才ら多くの人材を推薦し、いずれも操に高く評価された(一方、彧の推した厳象は揚州刺史として李術に殺され、韋康も涼州刺史として馬超に殺された)。
  • 建安3年頃、袁紹が河朔を統べ驕り、操が張繡に敗れた際、紹が倨傲な書を送って開戦を迫ると、操は力の劣勢を憂え彧に相談。彧は「紹は強くとも結局操に制される」と見て、まず呂布を討ち、次いで紹に当たる策を説き、操は従って呂布を捕らえ徐州を平定した。
  • 建安5年(200年)袁紹が大軍で許を攻めた際、少府孔融が「田豊・許攸の智謀、審配・逄紀の忠、顔良・文醜の勇冠三軍に阻まれるのでは」と憂えると、彧は「紹の兵は多いが軍法が整わず、田豊は剛にして上を犯し、許攸は貪にして不正、審配は専にして無謀、逄紀は果断だが独断的、顔良・文醜は匹夫の勇に過ぎず一戦で捕らえられる」と看破し、後にすべてその通りとなった(詳細は袁紹伝)。
  • 官渡で対峙が長引き兵糧が尽きかけた際、操が撤退を彧に相談すると、彧は「楚漢の滎陽・成臯の対峙で先に退いた方が形勢を失った故事」を引き、「今、十分の一の兵で防いでいる公が紹の喉元を半年抑え続けているのは、まさに奇策を用いる好機」と説き、操はこれに従い堅守を続けて奇兵で紹を破った。彧は万歳亭侯に封じられ邑千戸を得た。
  • 建安6年(201年)操が破れた紹を放置し劉表討伐に向かおうとした際、彧は「紹が離散した衆を再結集する隙を与えるべきでない」と止め、操は思いとどまった。9年(204年)鄴を落とし冀州牧を兼ねた際、古の九州制復活が議されると、彧は「冀州が河東・馮翊・扶風・西河・幽并までを統べれば人心が動揺し天下統一が遠のく」と反対し、操はこれに従い議を止めた。
  • 12年(207年)操は上表して彧の功を称え、官渡での撤退を止めさせた功、劉表征討策を改めさせ冀州を平定させた功などを挙げ、増封を求めた。彧は固辞したが千戸を加増され(計2千戸)、正尚書令への任命も荀攸を通じて十数度辞退し、ようやく止められた。
  • 操の劉表討伐に際し、彧は「華夏は既に平定され、荊漢の滅亡は必至、宛・葉に声を出しつつ密かに軽兵で不意を突くべき」と献策し、操はこれに従い、折しも劉表が病死し子の劉琮が降った。
  • 17年(212年)董昭らが操を魏公に進め九錫を備えることを議した際、密かに彧に諮ると、彧は「曹公は本来漢朝を匡し振るうために義兵を興した、勲功は高くとも忠貞の節を守るべき、君子は徳をもって人を愛するもの」と反対し、議は一旦沙汰止みとなった。操はこれを不快に思い、孫権討伐の折、彧を譙に慰労に赴かせるとともに表を上げて彧を軍に留めた。彧は侍中・光禄大夫・持節・参丞相軍事として濡須に至ったが病を得て寿春に留まり、操から贈られた食器を開けると空であったため、薬を仰いで没したと伝わる(享年50)。献帝は哀惜し、祭祀の宴を廃して弔い、敬侯と諡した。翌年、操はついに魏公を称した。

史論

  • 献帝が西京に遷され山東が沸き返る中、荀彧は河冀の間を転々として曹氏に従った。その挙措・立言を見れば、王略を明らかにして国難を急いだのであり、乱に乗じて義を偽った謀ではない。仁を己の任とし、危急の中で人を救おうとしたのであろう。董昭の議に反対して非業の死を遂げたのは、運命の巡り合わせであったか。端木賜(子貢)が一言で両国の運命を左右したように、彧の全ての行動が仁義に適ったとは限らないが、時運の困難の中で雄才なくして溺れる世を救うことはできず、功が高く勢いが強まれば皇統もまた移る(魏へ)。彧が最後に正を取ったこと自体が、殺身成仁の義であったと評した。

  • 鄭公業(鄭太)は豪駿と称され、名声は上がったが権謀の時勢に迫られた(董卓への詭弁を指す)。財を散じて朋輩を助けた。孔融(北海の人)は天与の逸才で、言葉に抑揚があり、俗を驚かせたが孤高で和する者少なく、その高い謀を助ける者もいなかった。荀彧は補弼の臣として国難に真に感じ入り、功を成して時運を変えたが、その心跡は疑いを招くほど一貫していた。