後漢書卷一百 鄭孔荀列傳第六十 鄭太

董卓に説いた山東評

  • 鄭太、字は公業、河南郡開封の人、司農鄭衆の曽孫。若くして才略があり、霊帝末に天下の乱を予見して密かに豪傑と結んだ。財に富み田400頃を持ちながら常に食が足りないほど散財し、山東に名を知られた。孝廉・三府・公車の招きにいずれも応じなかったが、大将軍何進の輔政時に名士として尚書侍郎に召され、侍御史に遷った。
  • 何進が宦官誅殺のため并州牧董卓を召そうとした際、公業は「董卓は強忍寡義で野心が尽きない、朝政を授け大事を任せれば必ず凶欲を恣にする、殷鑒遠からず」と諫めたが用いられず、公業は官を棄てて去り、潁川の荀攸に「何公は容易に輔佐できる人物ではない」と語った。まもなく何進は害され、董卓は案の定乱を起こした。
  • 公業は侍中伍瓊・卓の長史何顒と共に卓を説き、袁紹を勃海太守として山東の義兵の芽を摘まぬよう仕向けた。義兵が起こると、卓は公卿を集めて大軍での討伐を諮ったが、誰も逆らえぬ中、公業だけが「政は徳にあり衆にあらず」と異を唱えた。卓が「では兵は無用と言うのか」と不快を示すと、公業は詭弁で「山東には大兵を用いるまでもない」として十の理由を挙げた。
  • 光武帝以来、中国は久しく戦を忘れており、山東の兵は多くとも脅威ではない。
  • 卓自身が西州出身で武功豊富であり、人々は既に畏服している。
  • 袁本初(紹)は京師育ちの公卿子弟、張孟卓(張邈)は東平の長者、孔公緒(孔伷)は清談の徒で、いずれも軍才がない。
  • 山東の士に孟賁・慶忌のような勇はなく、良将となる者がいても爵位の序列がなく団結できない。
  • 恃む力があっても各自が形勢を見合って動かず、同心協力しない。
  • 関西の民は羌との戦いに慣れ、婦女すら武器を執る勇猛さがある。
  • 天下最強とされる并涼の兵、匈奴・屠各・湟中義従・西羌八種は卓の配下にある。
  • 卓の将帥は長年の腹心で忠誠篤く、膠着した敵軍を烈風が枯葉を払うように破れる。
  • 乱を攻める者・邪を攻める者・逆を攻める者はいずれも滅びる(三亡)とされるが、卓は国政を秉り宦官を討伐した忠義の側にあり、山東の者たちこそこの三亡に当たる。
  • 東州の鄭玄、北海の邴原など儒生の仰ぐ人物に諮れば、山東諸将の強弱がわかる。燕趙斉梁も呉楚七国も結局は秦・漢に敗れた、今の徳政の下で反乱に加担する者などいるはずがない。
  • そして公業は「もし私の言に少しでも採るべき点があれば、いたずらに大軍を興して天下を驚かせ、負担にあえぐ民を集めて事を起こし、徳を棄てて衆に頼り威重を損なうべきではない」と結んだ。卓は喜び公業を将軍とし諸軍を統べて関東討伐に当たらせようとしたが、ある者が「鄭公業は智略に優れながら外寇と結ぶ恐れがある」と説いたため、卓は兵を取り上げ議郎に留めた。
  • 卓が長安に遷都すると天下は飢乱し、士大夫の多くが命を落とす中、公業は余財で賓客を招き宴を催し、多くを救済した。何顒・荀攸と共に卓誅殺を謀ったが事が漏れ、顒らは捕らえられた。公業は身を脱して武関から東の袁術のもとへ走り、術に揚州刺史として推挙されたが赴任の途上、42歳で没した。