後漢書卷九十八 郭符許列傳第五十八 符融

李膺に紹介された鑑識眼

  • 符融、字は偉明、陳留郡浚儀の人。都官吏となったがこれを恥じて辞し、太学で少府李膺に師事した。膺は日頃簡素な人柄で他の賓客を退けてまで融の言論を聴いた。郭林宗が初めて京師に入り誰にも知られなかった際、融は一度会っただけで感嘆し李膺に紹介、これにより林宗は名を知られた。
  • 漢中の晋文経、梁国の黄子艾が才智を恃んで京師で名声を誇り、病と称して面会を拒みつつ洛中の士大夫の来訪を受けていた。三公の辟召に際してもこの二人の可否が基準にされていたが、融はその虚名を見抜き、太学で李膺に「この二人は実業もなく豪傑を気取り、公卿までも病を問わせている、小道が義を破り虚誉が実を違えることを察するべきだ」と説いた。李膺はこれを納れ、二人の名声は次第に衰え、賓客も減り、10日ほどで恥じて逃げ去った。のち果たして軽薄の徒として罪に廃された。
  • 融は州郡の礼請・孝廉挙にも公府の辟召にも応じなかったが、太守馮岱が面会を求めた際、郡士の范冉・韓卓・孔伷の3人を推挙し、その後病を理由に自ら関係を絶った。党事に連座し禁錮を受けた。妻の死に際し貧しく棺も購えなかったが、郷人が棺を用意しようとするのを固辞し、「古の葬りは野に棄てるのみだった、妻子の志だけを行うべきだ」として土に埋めるのみとした。同郡の田盛、字は仲嚮も郭林宗と同じく人物鑑定に優れ、仕えずに寿を全うした。