後漢書卷九十八 郭符許列傳第五十八 郭太

人物鑑定の名手

  • 郭太、字は林宗(范曄の父の諱が「泰」であるため「太」に改めた。鄭公業の名も同様の理由で改められている)、太原郡界休の人。貧賤な家に生まれ早くに父を失い、母は県庭に仕えさせようとしたが、林宗は「大丈夫たる者が小さな役目にとどまろうか」と言い、成臯の屈伯彦のもとで3年学び墳籍に博通、談論に優れた。
  • 洛陽に遊学し河南尹李膺に見え、その才を認められて友となり、名声が京師に轟いた。帰郷の際には衣冠の諸儒が数千両の車で見送ったが、林宗は李膺とだけ同舟して渡り、賓客は二人を神仙のように仰ぎ見た。
  • 司徒黄瓊・太常趙典に辟され、仕進を勧める者に対し「夜に天象を観、昼に人事を察するに、天の廃するところは支えられない」と答え応じなかった。人を明察し士人を奨め導くことを好み、身長8尺、容貌魁偉であった。
  • 陳と梁の間を旅した際、雨に遭い頭巾の一角が垂れ下がったが、それを見た人々が故意に頭巾の一角を折り「林宗巾」と呼ぶほど慕われた。范滂が郭林宗をどう思うか問われた際、「隠れて親を違えず(介之推の類)、貞にして俗を絶たず(柳下惠の類)、天子も臣とできず諸侯も友とできぬ人物」と答えた。
  • 母の喪では至孝と称された。人倫を見る目に優れながらも危言覈論(過激な議論)をせず、宦官が政を専らにしても害されることがなかった。党事が起こった際、名士の多くが害される中、林宗と汝南の袁閎だけは免れ、門を閉ざして千人の子弟を教授した。
  • 建寧元年(168年)太傅陳蕃・大将軍竇武が宦官に害されると、林宗は野で慟哭し、「人の亡くなるや邦国は殄瘁す(詩経の言葉)」と嘆いた。翌年春、42歳で家で没した。四方の士千余人が会葬に集い、同志が石碑を刻み、蔡邕が碑文を書いた。蔡邕はのちに盧植に「私は多くの碑銘を書いたが皆いくらか誇張がある、ただ郭有道(林宗)の碑だけは慚愧がない」と語った。
  • 林宗の人物鑑定はことごとく的中したと伝わる。陳留では符偉明(符融)と友となり、太学では仇季智を師とし、陳国では魏徳公と親しみ、汝南では黄叔度(黄憲)と交わった。あるとき袁奉高(袁閬)を訪ねて一泊もせず去った一方、黄叔度のもとでは連日滞在した。理由を問われ「奉高の器は泛濫のようで清らかだが汲みやすい、叔度の器は千頃の陂(大きな池)のように澄ませても濁らず量り知れない」と答え、果たしてその通りとなった。
  • 世に伝わる説話には後世の潤色も混じるが、確かな事跡を以下に記す。
  • 陳留の学生・左原が罪を犯し斥けられた際、林宗は道で出会い酒肴を設けて慰め、顔涿聚・叚干木が盗賊から忠臣・名賢になった故事、蘧瑗・顔回でさえ過ちを免れなかった故事を引いて「悔いを恨みに変えるな、己を省みよ」と諭した。原はこれに感じて改心したが、のち再び恨みを抱いて報復を企てた日、林宗が学中にいたことを恥じて計画を止めた。事が明るみに出ると人々は皆その効を認めた。あるとき「なぜ悪人を絶たないのか」と問われた林宗は「不仁の人を疾みすぎることもまた乱の元だ」との孔子の言を引いた。
  • 陳留の茅容、字は季偉は40余歳で耕作していたが、雨宿りの際に一人だけ端座し、林宗が奇として交わった。容は鶏を殺して林宗のために膳を用意したが、それを母に供し自らは粗食で客とともに食べた。林宗は「君こそ賢者だ」と称え学問を勧め、容はついに徳を成した。
  • 鉅鹿の孟敏、字は叔逹は太原に寄寓中、荷った甑(こしき)を落として割れても振り返らず「もう壊れたものを見て何になる」と答え、林宗はこれを異として遊学を勧め、10年で名を知られ三公に辟されたが応じなかった。
  • 潁川鄢陵の庾乗、字は世遊は門卒であったが林宗に見出され諸生の傭となり、講論に優れながらも常に下座に座り続けたため「下座を貴ぶ」学風が生まれ、召されても応じず「徴君」と呼ばれた。
  • 扶風の宋果、字は仲乙は復讐を好む乱暴者だったが、林宗の義方の訓えに感じて改心し、烈気で知られ公府・侍御史・并州刺史を歴任し治績を上げた。
  • 林宗の郷人・賈淑、字は子原は世代を経た冠冕の家柄ながら邑里の患いとされる悪人であったが、林宗の母の喪に弔問に来た際、鉅鹿の孫威直がそれを見て怪しみ去ろうとしたところ、林宗は「賈子厚は確かに凶徳の人だが心を洗って善に向かおうとしている、孔子も互郷の童子の来訪を拒まなかった」と説いて追いかけて謝した。淑はこれを聞いて自ら省み善士となった。
  • 陳留の史叔賔は若くして盛名があったが、林宗は「牆髙く基低ければ必ず失う」と評し、のちに議論の枉げにより名を失った。
  • 済陰の黄允、字は子艾は才で知られたが、林宗は「絶人の才があるが道を守る志が篤くない、いずれ失うだろう」と評した。のち司徒袁隗が姪の縁談を望むほど評判を得たが、允は先の妻を離縁しようとし、妻は親族300余人を集めた席で夫の隠れた悪事15件を数え上げて去り、允はこれにより世に廃れた。
  • 汝南召陵の謝甄、字は子微は陳留の辺讓と共に談論に優れ盛名があったが、林宗は「二人とも英才だが道に入っていない、惜しいことだ」と評し、のち甄は細行にこだわらず名を毀損、讓は曹操を軽んじて殺された。
  • 同郡の王柔(字は叔優)・王沢(字は季道)兄弟は仕進と経術それぞれの適性を見抜かれ、のちにその通りとなった(柔は護匈奴中郎将、澤は代郡太守)。ほかにも張孝仲・范特祖・召公子・許偉康・司馬子威ら卑賤の出から成名した60人がいたという。

史論

  • 荘周は「人情は山川より険しい」と言ったが、それは動静で識別できても深い心底は見極めがたいためである。しかし林宗は雅俗を問わず見誤ることがなく、遜言危行(言葉を控え行いを正す)を貫き、世の暗さの中でも節を通した。士を慕い名を成させるその導きは、墨翟・孟軻にも劣らぬものだったと評した。