後漢書卷九十二 荀韓鍾陳列傳第五十二 陳寔

生涯

  • 陳寔、字は仲弓。潁川郡許の人。微賤の出身ながら童子の頃から人望があり、県吏・都亭刺史佐を経て学を好み、県令鄧邵に見出され太学で学んだ。冤罪で捕らえられた際も無実が明らかになり、督郵として密かに真犯人を捕らえた誠実さが伝わる。
  • 功曹として、中常侍侯覧の推薦人事を「用いるべきでないが常侍の意向に逆らえない」として密かに外署に留める形で処理し、後任の太守高倫が真相を公表して陳寔の義を称えた逸話が伝わる。
  • 太丘長として徳をもって治め、周辺の民が帰属した際も訴訟を禁じず「訟えて直を求めるものを禁じてどう解決するのか」と述べたため訴訟が自然と減った。沛相の不当な賦斂に抗議して印綬を解いた。
  • 党錮の獄に連座した際、他者が逃れる中「私が入獄しなければ衆は頼る所を失う」と自ら囚われに赴いた。宦官張讓の父の葬儀に名士が誰も参列しない中、独り弔問し、後の党人誅殺の際に張讓が陳寔の恩に感じ多くを助命した逸話が伝わる。
  • 郷里で公平に事を裁き、盗みに入った者を「梁上の君子」と呼んで諭した逸話(貧困が盗みの原因と見抜き絹を与えた)で知られる。何度も三公候補に挙げられながら固辞し、八十四歳、中平四年に没した。何進が弔祭の使者を送り、会葬者三万余人、「文範先生」と諡された。

陳紀・陳諶

  • 子の紀、字は元方も至徳で知られ、党錮で著書数万言(『陳子』)をものした。豫州刺史に至孝を表彰され、董卓に召されて五官中郎将・侍中・平原相を歴任、遷都議論に「天下有道、守在四夷」の理を説いて反対したが董卓には容れられなかった。建安初、大鴻臚となり七十一歳で没した。子の羣は魏の司空に至った。
  • 弟の諶、字は季方も兄と並ぶ高名で「三君」と称された。早くに没した。

  • 後漢中期以後、宦官の専権により、遁世・放言を高しとする風潮が広がる中、陳寔だけは進退の節を保ち、徳に依拠して物を犯さず、仁に安んじて群れを離れず、身をもって道を天下に示したため、王公も貴を誇れず、政の乱れの中でも風俗を清く保ち得たと評す。

  • 「二李師淑、陳君友皓。韓韶就吏、贏寇懐道。太丘奥廣、模我彛倫。曾是淵軌、薄夫以淳。慶基既啓、有蔚潁濵。二方承則、八慈繼塵」(李固・李膺は荀淑を師とし、陳寔は鍾皓と親交を結んだ。韓韶は吏として赴任し、贏の賊もその徳に懐いた。陳寔(太丘)はその奥深い徳をもって人倫の模範を示し、その深遠な軌跡は薄情な者をも純朴にした。荀氏の慶びの基は開かれ、潁水のほとりに盛んな家系が生まれた。陳紀・陳諶の二方はその法を継ぎ、荀氏の八人の子は皆「慈」の字を継いだ、の意)。