生涯
- 黄瓊、字は世英。江夏郡安陸の人、魏郡太守黄香の子。父の任で太子舎人に召されたが辞退し、五府の招きにも応じなかった。李固から「隠遁に固執せず出仕すべき」と促す書簡を受け、議郎から尚書僕射に進んだ。
- 上疏で、災異続発の中、河洛の図籍を検証し、光禄大夫樊英ら処士の登用を進言。旱魃の際には魯僖公の六事自譲の故事を引き、質素倹約と讒佞の放逐を求めた。籍田の礼の再興も強く進言し実現させた。
- 尚書令として、左雄の孝廉選挙制度を補完し「孝悌・能政」の科を加え四科とした。魏郡太守・太常を経て司空となり、桓帝が梁冀を周公になぞらえて封賞しようとした議論に、独り「里数でなく戸邑数を基準とすべき」と反論、実質的に梁冀の増封を抑えた。
- 梁冀誅殺後、旧梁氏派の三公(胡広・韓縯・孫朗)が罷免される中、師傅の恩により連座を免れ太尉に封ぜられ、多年阿附しなかった清節により海内の信望を集めた。晩年、宦官五侯の専横を憂い病と称して出仕を控えつつも、临终に長大な上疏を奉り、梁冀時代の忠臣(李固・杜喬)の受難、李雲・杜衆の死、佞臣の栄達を痛烈に批判し、忠と佞が同時に賞せられる不条理を訴えた。七十九歳で没し、車騎将軍・忠侯を追贈された。
黄琬
- 瓊の孫琬、字は子琰。七歳で日食の欠け具合を「日の残りは月の初めのごとし」と機知に富んだ答えをして瓊を驚かせた逸話で知られる。光禄勲陳蕃に重んじられ、茂才・四行の推薦において権門の子弟でなく実力ある人材(劉醇・朱山・殷参ら)を登用し、逆に権門の恨みを買って禁錮された。
- 光和末、太尉楊賜の推薦で議郎に復し、青州刺史・侍中・右扶風・将作大匠・少府・太僕・豫州牧を歴任し、寇賊討伐で威声を上げた。董卓政権下では司徒・太尉となり、遷都議論に楊彪とともに反対、白公勝・崔杼の故事を引いて節を曲げぬ覚悟を示した。董卓に一時免ぜられたが名徳ゆえに害されず、王允と共謀して董卓誅殺を図り、李傕・郭汜の乱で長安陥落の際、下獄され五十二歳で死んだ。
論
- 古の諸侯歳貢の制から漢の孝廉・秀才、中興以後の敦朴・有道・賢能・直言など多様な選挙制度の変遷を概観し、左雄の選挙改革(年齢・試験制度)が実効を上げた一方、黄瓊・胡広・張衡・崔瑗ら旧法を守る論者との対立があったことを紹介、雄の在任中は選挙が公正に機能したと評価する。
- 順帝が幼少より親政を行い、樊英を厚遇して人材登用の気風を作った意義を称え、李固・周挙・左雄・黄瓊・桓焉・楊厚・崔瑗・馬融・呉祐・蘇章・种暠・欒巴・龐参・虞詡・王龔・張晧・張綱・杜喬・郎顗・張衡ら、東京(後漢)の人材輩出の盛況を列挙する。もしこれらの謀を朝廷が全面的に採用していたら武帝・宣帝の治世に劣らなかったであろうと惜しみ、桓帝の代の陳蕃・楊秉・皇甫規・張奐・段熲・王暢・李膺・朱穆・劉陶・郭泰・陳寔らの名も挙げつつ、宦官の専横により士大夫が禍を受け続けた実情を嘆く。
贊
- 「雄作納言、古之八元。舉升以彚、越自下蕃。登朝理政、並紓災昬。瓊名夙知、累章國疵。琬亦早秀、位及志差」(左雄は納言(尚書)として古の八元に比すべき人材であった。周挙は類を同じくして登用され、下位から起用された。朝廷に登り政を理め、ともに災いを解いた。黄瓊は早くから名を知られ、たびたび上章して国の欠陥を指摘した。黄琬もまた早くから秀でていたが、位は志に及ばなかった、の意)。