出自と初期の学問
- 張衡、字は平子。南陽郡西鄂の人。代々著姓で、祖父の堪は蜀郡太守。若くして文章に優れ、三輔に遊学し京師の太学で五経・六芸に通じた。才は世に高くとも驕らず、俗人との交際を好まなかった。永元中、孝廉に挙げられても仕えず、公府の招きも辞退した。
- 天下太平が久しく続き王侯以下が奢侈に流れる中、班固の『両都賦』に倣い『二京賦』を作って諷諫した(十年をかけて完成、文が多いため本文には収めない)。大将軍鄧隲がその才を評価し招いたが応じなかった。
- 機巧に長け、天文・陰陽・暦算に思索を凝らし、揚雄の『太玄経』を愛読して「漢家が天下を得て二百年の書、さらに二百年で漢は終わるだろう」と崔瑗に語った逸話が伝わる。安帝に召され郎中、のち太史令に再任され、渾天儀を作り『霊憲』『算罔論』を著した。
「応間」――志の表明
- 順帝初、再び太史令となった際、久しく異動しない自分の境遇について「間(もんどう)」に問う客の体裁で「応間」を作り志を述べた。
- 客が「下学して上達し、国を佐け民を治めるべき」と促すのに対し、張衡は「学は利を求めるものではない。学は道を体するもの。老子の『曲なれば全し、進道は退くが若し』の理に従い、今は必ずしも進むべき時ではない」と応じ、機巧・天文の道を究めることも「理民の式(模範)」に合致すると説き、俗儒からの誹りを甘受する覚悟を語った。
候風地動儀と讖緯批判
- 陽嘉元年、精銅で候風地動儀を作った。円径八尺、蓋は酒尊に似た形で、篆文・山亀鳥獣の飾りが施され、内部に都柱と八道の機関、外に八龍が銅丸を銜え下に蟾蜍が口を開けて受ける仕組みで、地震が起きると該当方位の龍が丸を落として震源を知らせた。ある時一龍の機が発動しても京師では揺れを感じず学者が怪しんだが、数日後隴西で地震が起きたとの駅伝が届き、その精妙さに皆服したという。
- 政事が漸く乱れ権が下に移る中、上疏して「臣下が権を専らにすれば災異が起こる。近世の鄭衆・蔡倫・江京・樊豊・周広・王聖の例(宦者伝)が皆その証だ」と述べ、刑徳の八柄が天子から出るよう戒めた。
- 光武帝以来、讖(予言書)が重んじられる風潮に対し、張衡は「讖書は前漢末の哀帝・平帝の頃に偽作されたもので、聖人の言に矛盾が多い(賈逵が指摘した三十余の齟齬など)」と論じ、王莽簒奪の予兆が讖書にないことを指摘し、図讖の収蔵・禁絶を求める上疏をした。
「思玄賦」
- 侍中となり帷幄に侍って諷議したが、宦官の悪を問われた際に婉曲に答えたところ宦官らに恐れられ讒言を受けた。吉凶の理は微妙で明らかにしがたいと考え、思いを寄せる「思玄賦」を作った。
- 賦は、先哲の玄訓を仰ぎ仁義の道を守る決意から始まり、周公が管叔・蔡叔の讒言に遭いながら忠を全うした故事、忠臣が讒言に苦しむ様、俗の変化に流されず義を守る志を述べる。占いに従い吉辰を選んで旅立ち、東方(少昊の窮野)から始め、蓬萊で不死の芝を採り、崑崙・稽山(会稽山)で禹の遺跡を訪ね、湘水で舜の二妃を弔い、南方の炎天を経て西方の軒轅国・弱水を渡り、天界に昇って紫宮・太微を巡り、王良・招揺・攝提などの星官を歴訪し、天帝の楽(広楽九奏)を聴き、最後に「もし中庸の道を守り仁義に安んじれば、道徳・無為の境地に至る」と悟り、松喬(赤松子・王子喬)の仙境を慕いつつも、現世に留まり典籍・六芸に遊ぶことを選ぶという理趣で結ばれる(長大な韻文のため、要旨のみを記す)。
河間相としての善政
- 永和初、河間相となった。当時の河間王政は驕奢で法度を守らず、豪右が不軌を働いていたが、張衡は威厳をもって治め、姦党を一斉に検挙し、上下が粛然とした。三年間、善政で称えられ、上書して致仕を願い、尚書に召されて六十二歳、永和四年に没した。
著述と史書批判
- 『周官訓詁』を著したが崔瑗はこれを諸儒に異なる新見なしと評した。孔子『易』の彖・象の欠を補おうとしたが果たせなかった。詩・賦・銘・七言・『霊憲』『応間』『七辯』『巡誥』『懸図』など三十二篇を著した。
- 永和中、劉珍・劉騊駼らが東観で『漢記』を編纂した際、参加を請う上疏をし、司馬遷・班固の記述で典籍と食い違う十余事(三皇を記載しない誤りなど)を指摘し、王莽本伝は簒奪の事のみ記すべきで、更始帝の年号を光武紀の初めに立てるべきと提案したが、いずれも聞き入れられなかった。後の著述の多くが詳細を欠いたことを、時人は後悔したという。
論・贊
- 崔瑗の碑文「数術は天地を窮め、制作は造化に等しい」との評を引き、渾天儀を作って天地の理を極め、地動儀を作って人の智の及ばぬところを察した張衡の思索の深遠さを称える。「徳成りて上、蓺成りて下」というが、この思索の深さは芸に留まらぬものだったと結ぶ。
- 「三才理通、人靈多蔽。近推形算、逺抽深滯。不有𤣥慮、孰能昭晣」(天地人の三才は理として通じているが、人の霊性は多くが蔽われている。近くは形算を推し量り、遠くは深く滞った理を引き出した。深遠な思索がなければ、誰がこれを明らかにできようか、の意)。