後漢書卷八十七 杜欒劉李劉謝列傳第四十七 劉陶

劉陶

  • 劉陶、字は子奇(一名偉)。潁川郡潁陰の人、濟北貞王勃の後裔。交友は志操を同じくする者を選び、富貴に媚びず貧賤にも意を変えなかった。梁冀専権・桓帝無嗣・連年の飢饉と災異が続く中、太学生として上疏し、天子と天の相互依存の理を説き、宦官への権柄委譲を批判、朱穆・李膺ら清廉な士を朝廷に還すべきと訴えた。
  • 「大銭を鋳造すべき」との議論が起きた際も反対の議論を上疏し、当今の憂いは貨幣の軽重ではなく民の飢餓にあるとし、農桑を損なわず賦役を止めることこそ急務であると説き、「民は百年貨無くとも生きられるが、一朝の飢えには耐えられない」と論じた。帝はこの議論により鋳銭を取りやめた。
  • 順陽長として姦猾を鎮め善政を敷き、民に慕われ「邑然として楽しまず、我が劉君を思う」と歌われた。尚書春秋を訓詁し「中文尚書」を著した。侍御史として、鉅鹿の張角の妖言による民衆惑乱の危険を早くから警告する上疏をしたが顧みられず、翌年黄巾の乱が起きた。
  • 尚書令となったが権臣に憚られ京兆尹に左遷され、修宮銭の要求を清貧を理由に拒んで諫議大夫に戻された。天下騒乱の中、西羌反乱の危急を訴える上疏を重ねたが、宦官らが陶を賊と内通していると讒言、下獄拷問の末、「伊呂と列に並べず、三仁(箕子・微子・比干)の類とされたことが恨めしい」と語り、絶食して死んだ。天下がこれを痛惜した。数十万言の著述と『七曜論』などを著した。
  • 同時期、司徒陳耽も忠正の名声を妬まれ、宦官の讒言で獄死した。