楊賜
- 秉の子賜、字は伯献。家学を受け継ぎ、隠居して門徒に教授し州郡の招きに応じなかった。梁冀府の招きを避け、陳倉令を病と称して赴任せず、司空の推薦で越騎校尉を経て侍中となり、靈帝の侍講を務めた。
- 熹平元年、御座に青蛇が現れた怪異について問われ、封事で「和気は祥を致し、乖気は災を致す」と応じ、蛇龍の孽は皇極不建(天子の中庸の道が立たぬこと)の徴であり、鄭の内外蛇闘の故事や殷湯の亢旱の故事を引き、皇甫規(外戚)の権を抑え豔妻(寵妃の一族)への愛を割くよう諫めた。二年に司空となるも災異で免、五年に司徒となり微行を諫めた。
- 光和元年、嘉徳殿前に虹蜺が現れた怪異の際、中常侍曹節・王甫に「私は張禹伝を読むたびに憤慨する」と述べつつも、封事で「今、妾媵・嬖人・閹尹の徒が国朝を専らにし、鴻都門下では小人が寵愛を受けている」と痛烈に批判し、佞巧の臣を斥け鶴鳴の士を招くよう求めた。この上書は曹節らの怒りを買い、共に対応した蔡邕は朔方に流されたが、賜は師傅の恩により咎めを免れた。
- 三老の礼を受け少府・光禄勲を経て司徒となり、靈帝が畢圭・霊琨苑を造ろうとした際にも民の田を奪う不当を諫めた。中平元年、黄巾の乱勃発時には、州郡による性急な討伐でなく、流民を本郡へ還し賊党を孤立させてから渠帥を誅すべきと献策したが、事は宙に浮いたまま放置された(後に靈帝がこの上書を見て感悟し、臨晋侯千五百戸に封じた)。
- 太尉劉寛・司空張済とともに侍講した恩賞を独占せず戸邑を分けようと申し出て靈帝に称賛された。尚書令・廷尉を歴任し、「三后(禹・稷・契)の功に皋陶は与らなかった」との故事を引いて謙譲し、特進として退いた。二年後に司空に復し、その月に薨じた。天子は三日朝を臨まず、東園の梓器・多くの財を賜り、故司空臨晋侯として厚く弔われた。子の彪が嗣いだ。