楊秉
- 震の中子秉、字は叔節。若くして京氏易にも通じ、四十余歳で司空の招きに応じ侍御史となり、豫・荊・徐・兖四州刺史・任城相を歴任。清廉を貫き、旧吏が贈った百万銭も固辞した。
- 桓帝の代、太中大夫・侍中尚書となり、帝が河南尹梁𦙍の邸へ微行した際、風害を機に「王者は郊廟の事にあらざれば鑾旗を出さない」と諫めたが容れられず、病を理由に外任を求め右扶風に転じたが、太尉黄瓊の惜しみで光禄大夫に留められた。
- 梁冀の専権中は病と称して六年間出仕せず、梁冀誅殺後に太僕・太常を歴任。延熹三年、白馬令李雲の諫争に連座して免官されたが、その冬に河南尹に復帰。中常侍単超の弟単匡の贓罪を追及した際、匡が刺客を放って逃走させたことを弾劾したが、逆に自らが左校に輸作される罰を受け、のち日食を機に太山太守皇甫規らの訟えで召し戻された。
- 太常を経て五年冬、太尉となり、司空周景とともに宦官子弟の不当な任官を糾す上奏を行い、匈奴中郎将燕瑗ら五十余人を弾劾罷免した。留任目的の郎官任命の弊も改めさせた。
- 中常侍侯覧の弟参の益州刺史としての貪虐を弾劾檻車徴致し(参は道中自殺)、続けて侯覧・具瑗の宦官としての専横も弾劾し、公府外職からの弾劾の前例を春秋の趙鞅・鄧通の故事を引いて正当化した。結果、侯覧は免官、具瑗は封国を削られた。
- 早くに夫人を亡くして以後再婚せず、「私には酒・色・財の三つに惑わされないという自負がある」と語った。八年、七十四歳で薨じ、陵の傍に塋域を賜った。