徐穉
- 徐穉、字は孺子。豫章郡南昌の人。貧家に生まれ、自ら耕さねば食べぬ質素な生活を守り、恭倹義譲の徳が郷里に及んだ。公府の招きに応じなかったが、太守陳蕃には礼を尽くされ功曹として一度謁見だけした。陳蕃は普段賓客を寄せ付けなかったが穉のためだけに特別な榻を設け、去れば榻を吊り上げたという。
- 延熹二年、尚書令陳蕃・僕射胡広らが徐穉・姜肱・袁閎・韋著・李曇ら処士を朝廷に推薦する上疏を奉り、桓帝は安車玄纁で招いたが応じなかった。陳蕃は帝の問いに答え、徐穉を「江南の卑薄の地から角立傑出した」として最も高く評価した。
- 太尉黄瓊に招かれたことがあり、瓊の死に際しては糧を背負い徒歩で江夏まで赴き、鶏酒を供えて哭き、姓名も告げず立ち去った。郭林宗らがこれを怪しみ茅容を遣って追わせたところ、穉は「大樹将に顚れんとするに一縄の維ぐ所に非ず。なんぞ栖栖として遑らず処らざる」(大木が倒れようとする時、一本の綱では支えられない、の意)と郭林宗への伝言を託した。郭林宗の母の喪の際には生芻一束を廬前に置いて去り、林宗は「これは必ず徐孺子だ」と悟った。
- 靈帝初め、蒲輪で招こうとした矢先、七十二歳で没した。子の胤(字季登)も篤行の人で隠居して仕えず、太守華歆が礼を尽くして招いても病と称して応じなかった。乱世にあっても賊は胤の礼行を敬い、その閭を犯さなかったという。李曇(字雲)も継母への孝を貫き、法を守り親を養い終身仕えなかった。