崔篆――出自と王莽期の苦難
- 崔駰、字は亭伯。涿郡安平の人。高祖父の朝は昭帝の時、幽州従事として刺史を諌め燕刺王旦の謀反に連座せず、のち侍御史に抜擢された。その子舒は四郡太守を歴任して名声を得た。舒の末子篆は王莽の時、明経の徴で歩兵校尉に挙げられたが「伐国は仁人に問わず、戦陣は儒士に訪ねず」と辞退した。
- 兄の発が王莽に佞巧で寵愛され大司空に至り、母の師氏も学識により義成夫人の号を賜るなど一族が栄えたが、篆は「無妄の世に澆羿の君(暴虐な支配者)に遇う」と嘆きつつも老母兄弟のため職に就き、建新大尹(千乗郡)となった。
- 赴任後、称疾して三年間巡行せず、門下掾倪敞の諌めでようやく巡行すると獄が満員であるのを見て涙し、二千余人を釈放した。掾吏の諌めに「邾文公が一身を犠牲にしても人を利したのは知命というべきだ。一大尹を殺して二千人を贖えるなら本望だ」と答え、まもなく称疾して去った。
- 建武初、朝廷に推薦する者が多く幽州刺史も賢良に挙げたが、王莽への旧縁を恥じて仕えず、滎陽に隠棲して『周易林』六十四篇を著した。臨終に賦「慰志」を作り、伊尹・傅説の遇い、王莽簒奪への憂憤、光武中興への期待を詠じて自ら悼んだ(賦の全文略)。
生涯と『達旨』
- 篆の子毅は病により隠身不仕、毅の子が駰である。駰は十三歳で詩・易・春秋に通じ博学多才、古今の訓詁百家の言に通じ、太学に学び班固・傅毅と斉名した。
- 時人が「あまりに玄静で名を失うのでは」と譏ったのに対し、揚雄の『解嘲』に倣って『達旨』を作り答えた。その大要は、明帝の盛世において賢者が急いで仕官を求める必要はなく、道を守り時を待つのが君子の道であるとし、古来の隠士(許由・鮑焦・接輿など)と時に応じて功を立てた人物(伊尹・呂尚・曹参・陳平など)を対比しつつ、「険なれば俗を救い、平らかなれば礼を守る」の理を説くものである。
- 元和年間、粛宗(章帝)が古礼を修めて巡狩した際、駰は「四廵頌」を奉り帝に称えられた。帝が竇憲に「崔駰を知るか」と問い、憲が招いて上客とした。帝が駰を召見しようとした際、憲は「白衣の身では不適当」と諌めたが、まもなく帝は崩じた。
- 竇太后臨朝、竇憲が権勢を得ると、駰は上書して「交浅くして言深きは愚、賤にして貴を望むは惑、未だ信ぜられずして忠を納むるは謗」と自戒しつつも忠言を呈し、外戚の栄達の例(馮野王・陰興は謙譲で福を保ったが、多くの外戚は驕り滅んだ)を引いて憲を戒めた。
- 憲の車騎将軍府の掾となり、憲の擅権・不法を諌めたが容れられず疎まれ、長岑県令に左遷されると赴任せず帰郷、永元四年に家で没した。詩・賦・銘・頌・書・記・表・七依・婚礼結言・達旨・酒警など二十一篇を著した。