後漢書卷七十八 楊李翟應霍爰徐列傳第三十八 應奉

應奉(子の應劭)

  • 応奉、字は世叔、汝南南頓の人。曾祖父の応順は和帝の代、河南尹・将作大匠として公廉に知られた(讒言を受けなかった清廉な逸話、竇憲の縁者を厚遇しなかったため竇氏敗滅後も咎められなかった逸話が伝わる)。十子皆才学あり、その系譜を経て応奉が生まれた。
  • 応奉は幼少より聡明で一度見聞きしたことを暗記し、書を読むのに五行を同時に読み進めるほどであった。郡決曹史として四十二県を巡察し数百千人の囚徒の氏名・罪状を記憶し、太守に問われるまま口述して人々を驚かせた。『漢書後序』を著し、大将軍梁冀に茂才として挙げられた。武陵蛮詹山らの反乱鎮圧に「将帥の才」として推薦され、永興元年、武陵太守として叛乱を鎮撫し学校を興し治績を挙げたが事に坐して免ぜられた。延熹中、再び武陵蛮の乱に際し車騎将軍馮緄の要請で従事中郎として従軍し功を挙げ、司隷校尉に推挙され豪戚を憚らぬ厳正な弾劾で知られた。
  • 鄧皇后失脚後、田貴人の立后が議された際、応奉は「周が狄女を納れ襄王が鄭に出奔した例、漢が飛燕(趙飛燕)を立て成帝の後嗣が絶えた例」を引き、田氏の微賤な出自を理由に反対した(結局竇皇后が立てられた)。党錮の禍が起こると病と称して退き、屈原を悼んで『感騒』三十篇数万言を著した。多くの公卿に推薦されたが病没した。

應劭(応奉の子)

  • 応劭、字は仲遠。篤学博覧で、霊帝の代に孝廉に挙げられ車騎将軍何苗の掾となった。中平二年、涼州の辺章・韓遂の反乱に際し、車騎将軍皇甫嵩の烏桓発兵案に対し、北軍中候鄒靖が鮮卑の募兵を提案、大将軍掾韓卓は烏桓と鮮卑が世仇であるため烏桓発兵は危険だと反論する中、応劭はさらに「鮮卑は貪暴で信義に乏しく、匈奴・羌との過去の共闘でも略奪を重ねた」と鮮卑募兵に反対し、隴西の羌胡の善良な者を選び太守李参の統率で漸進的に治めるべきと論じた。この論争は朝堂の議に付され、応劭の議が採用された。
  • 高第で挙げられ、初平二年、太山太守として黄巾三十万の侵攻を撃退し数千級を討ち郡を安んじた。興平元年、前太尉曹嵩父子が太山を通過した際、徐州牧陶謙が曹操への怨みからこれを殺害する事件が起き、応劭は曹操の報復を恐れ郡を棄てて袁紹の元へ逃れた。
  • 安帝時代の刑罰事件(尹次・史玉の殺人罪をめぐり、兄弟が身代わりに自殺した情に免じ尚書陳忠が減刑した先例)に対し、応劭は後年これを駁議し、「刑罰は禁暴のためのもの、殺人者は死すというのが百王の定制、次玉・尹次の罪を減じたのは陳忠が一時の仁に流された誤り」と論じ、「小さな枯木一本で災いとなり大きな華一輪で異変となる、無罪の初軍を殺し当死の次玉を生かすのは春秋の異変と同じ理」と厳しく批判、八議(親故賢能功貴勤賔)の濫用を戒めた。応劭の駁議は三十篇に及ぶ。
  • 建安元年、律令を刪定して『漢儀』を撰し、これを献帝に上奏した。「載籍は嫌疑を決し是非を明らかにするもの」とし、董仲舒の『春秋決獄』の先例を引き、董卓の乱で典籍が焼失した状況を憂え、律本章句・尚書旧事・廷尉板令決事比例・司徒都目五曹詔書・春秋断獄など二百五十篇を整理し、駁議三十篇(八十二事)も類別に集成した。献帝はこれを善しとした。
  • 建安二年、袁紹軍謀校尉に任じられ、遷都後に散逸した旧章を惜しみ『漢官礼儀故事』を著し、朝廷制度・百官典式の多くが応劭の考証によって定まった。父応奉の記録を継いで『状人紀』を編み、当時の事跡を論じた『中漢輯序』、物類・名号を弁じた『風俗通』を撰し、著述は合わせて百三十六篇に及んだ。晩年は鄴で没した。子の応瑒・応璩も文才で知られた。応氏は七代にわたり顕官を輩出した名族であった。