後漢書卷七十八 楊李翟應霍爰徐列傳第三十八 翟酺

翟酺

  • 翟酺、字は子超、広漢雒の人。四世代にわたり詩を伝える家系で、老子を好み図緯・天文暦算に通じた。舅の仇討ちのため日南への流罪を逃れて長安で卜相の術で生計を立て、涼州で牧羊し赦免後郡に仕えて議郎、侍中に遷った。尚書欠員の試験で、忌む相手の太史令孫懿を訪ね「図書に『漢賊孫登』とあり、あなたの人相はそれに似ている、災いを恐れて涙する」と偽って告げ、孫懿を病と称して試験辞退させ、自ら首席で尚書に補せられた逸話が伝わる。
  • 安帝親政初め、祖母宋貴人の一族を悉く封じ、元舅耿宝や皇后の兄弟閻顕らが権勢を振るう状況を憂え、上疏した。「微子は殷を去り叔孫通は秦を捨てて漢に帰した、時勢を見極めたのだ」とし、竇氏・鄧氏の寵幸が破滅を招いた先例(「豚となりたくとも得られない」との荘子の譬え)を引き、外戚の栄達が急激であることの危うさを説き、「虎に翼を与えれば制御できなくなる」「国の利器は人に示すべきでない」との老子の言を引いた。
  • さらに文帝の倹約(露台建設の中止)を模範に、初政以来の際限ない費用と賞賜、無功の家への財の集中を批判し、「周公・召公・畢公・史佚の四子に輔けられた成王の政」に対し「陛下には成王の尊はあるが四子の佐がない」と指摘、頻発する災異を「修身恐懼すれば福に転じ、天戒を軽んじれば害はさらに深まる」と警告し、忠貞の臣を求め佞諂の党を誅し、玉堂の盛儀より天爵の重みを尊ぶべきと説いたが、上疏は聞き入れられず、外戚・寵臣に憎まれた。
  • 延光三年、酒泉太守として出され、叛羌千余騎の侵攻を撃退し九百級を討って威名を上げ、京兆尹に遷った。順帝即位後、光禄大夫、将作大匠として経費を大幅に節減し、たびたび災異に際し匡正の議を上げたが(漢の国運四百年説を説いて奢侈抑制を進言した記録もある)、権貴に誣告され尚書令高堂芝らとの不正交通で罪を得て減死となり、さらに謀反の疑いで廷尉に逮捕されたが、杜真らの弁護により無実が明らかとなり家で没した。著書に『援神鉤命解詁』十二篇。
  • 太学の荒廃を憂え、光武帝以来の太学・辟雍の伝統(明帝時代に趙熹が両立を主張した経緯)を説き、免官後も太学の復興が図られ、学者は翟酺のために碑銘を建てた。