廣陵思王荊
- 広陵思王荊、建武十五年に山陽公、十七年に王。刻急・陰険な性格で法文を弄することを好んだ。光武帝の崩御の際、哀哭が浅かったばかりか、蒼頭(僕)に東海王彊の外舅と偽らせ、彊に謀反を促す偽書を送った。その内容は「郭太后の失位や王莽期の乱を思わせる王莽的天変の兆しを引き、彊に高祖・光武帝のように蜂起して天下を取るよう唆す」ものであったが、彊はこれを恐れて即座に上申し、荊の陰謀は露見した。顕宗は同母弟であることから事を秘し、荊を河南宮に留め置いた。
- 西羌反乱に乗じて再び星占い師と謀議したことが発覚し、帝は荊を広陵王に徙封して国に赴かせたが、荊は「自分の相貌は光武帝に似ている、光武帝は三十歳で天下を取った、自分も三十歳、挙兵できるか」と相工に問い、告発された。荊は自ら獄に繋がれたが帝はなお恩を加えて深く追及せず、臣属吏人を置かせず租税のみで暮らさせた。それでも改めず、巫を使って祭祀祝詛を行ったため有司が誅殺を奏請し、荊は自殺した。二十九年在位。帝は憐れみ「思王」の諡を贈った。子の元寿以下、代々広陵侯として続いた。