宋均(族子の宋意)
- 宋均、字は叔庠、南陽安衆の人。父の宋伯は建武初め五官中郎将。父の任により郎となり、経書を好んで博士に学び詩礼に通じ、辰陽長に補せられた。辰陽は巫鬼を信じる風が強く、宋均は学校を立て淫祀を禁じて民を安んじた。祖母の喪により官を去り潁川に遊学した。
- のち謁者となり、武陵蛮の反乱で武威将軍劉尚が包囲された際、江夏の奔命三千を率いて救援に赴いたが、到着時には劉尚は既に没しており、伏波将軍馬援の軍に監軍として合流。険路に阻まれ進めず、馬援も陣没し将兵の多くが疫病で倒れる中、宋均は諸将と議り「軍が反せぬなら権に応じて降を承制すべき」と決断し、司馬呂种に詔を偽って蛮の陣に送り、恩信を告げさせ、軍をその後に続けて威嚇し、蛮夷は震え降伏、大帥を斬った。宋均は帰還後すぐに矯制の罪を自ら弾劾したが、光武帝はその功を嘉し金帛を賜り、里帰りを許した。
- 上蔡令に遷った際、府が喪葬の奢侈を禁ずる令を出そうとしたのに対し、「不義の民がまだ教化されていないのに過度な処罰は政の先とすべきでない」と反対し実施させなかった。九江太守に遷ると虎害が多く檻穽を設けても死傷が絶えなかったため、「虎豹は山に、黿鼉は水に、それぞれ棲むもの。虎害の咎は残虐な吏にある」として檻穽を廃し、姦貪な吏の一掃を進めたところ、虎は東へ渡って去ったと伝えられた。中元元年、山陽・楚・沛に蝗害が広がったが、九江に及ぶと東西に散った。浚遒県では巫覡が男女を「山公・山嫗」として毎年取り替える悪習があり、婚姻さえ許されなかったが、宋均は「今後は巫の家から娶らせよ、良民を煩わすな」と命じ、この風習は絶えた。
- 永平元年、東海相に遷り五年で法に坐して免ぜられたが、東海の吏民はその恩化を慕い歌を作り、数千人が朝廷に還任を願い出た。顕宗はその能を認め、永平七年、尚書令に召し、駮議はしばしば帝意に適った。帝が疑事を刪って処理したことを姦事と疑い怒って郎を捕らえ鞭打とうとした際、諸尚書が畏れる中、宋均だけは「忠臣は義を執って二心なし、威を畏れて正を失うなら死んでも志は変えぬ」と諫め、帝はその不撓を認めて赦した。
- 司隷校尉に遷り、数月後、河内太守として出て善政を行い、病臥した際は百姓が快癒を祈願した。病により免を願い出ると、子の宋条が太子舎人に任じられ、宋均自身は輿で朝廷に謝恩に赴いた。帝は中黄門を遣って慰問し留めて療養させた。司徒の欠員に際し、帝は宋均を宰相に足る才として召見したが病重く、「天罰は罪ある者に下るもの、もう帷幄を望みません」と涙して辞し、帝も深く傷んだ。銭三十万を賜り、建初元年、家で没した。宋均は寛和で法文を好まず、吏の弘厚を重んじ、苛察な吏に隠れた害があると考えていたが、朝廷では厳切な風が強く諫言できなかったことを帝は後に知り追悼した。
宋意(宋均の族子)
- 宋意、字は伯志、父の宋京は大夏侯尚書を教授し遼東太守に至った。宋意は父の業を継ぎ、顕宗の代に孝廉に挙げられ阿陽侯相に抜擢された。建初中、尚書に召された。粛宗(章帝)が親愛の情に篤く、叔父の済南王康・中山王焉をしばしば入朝させ厚遇し、諸兄弟も封国に赴かせず京師に留めていたことに対し、宋意は「臣下に節あり、礼を踰えて過度の恩を受けるべきでない」と上疏し、周公が成王より「叔父」と呼ばれ幣を賜った故事を引きつつも、諸王が久しく京師に留まり婚姻・僕馬の盛んさが本朝を凌ぐほどであるのは驕奢の兆しであり、「門内の政は恩が義を掩うが、門外の政は義をもって恩を断つべき」として、各王を封国に帰すよう求めた。帝はこれを容れた。
- 章和二年、鮮卑が北匈奴を撃破し、南単于がこれに乗じて北伐を願い旧庭への帰還を求めた際、竇太后がこれに従おうとしたが、宋意は上疏し、光武帝以来四十余年、匈奴を羈縻し民を休ませてきた策、鮮卑が匈奴を攻めるのは略奪の利のためであり、南匈奴が北庭に還れば鮮卑を制御できず辺患となる恐れがあると論じ、「北虜が西に遁れ和親を求めているのに乗じて外藩とするのがよい」と説き、南単于の北遷に反対した。南単于はついに北遷しなかった。宋意は司隷校尉に遷り、永元初め、大将軍竇憲兄弟の権勢が盛んで、歩兵校尉鄧畳・河南尹王調・故蜀郡太守廉範らが竇氏の権威を恃んで放縦だったのを、宋意は容赦なく弾劾したため竇氏と軋轢を生じ、永元二年、病により没した。孫の宋俱は霊帝の代に司空となった。