後漢書卷六十九 劉趙淳于江劉周趙列傳第二十九 趙孝

趙孝

  • 趙孝、字は長平、沛国蘄の人。父の趙普は王莽の田禾将軍で、趙孝は郎に任じられていた。里帰りの際に布衣で徒歩し、亭長が「田禾将軍の子が来る」と聞いて厚遇の支度をしたが、名を明かさず、後から来ると答えて立ち去った。
  • 天下大乱の折、弟の趙礼が飢えた賊に捕らえられると、趙孝は自ら縄を打って賊に「礼は痩せている、私の方が肥えている」と申し出た。賊は驚いて二人とも放ったが、趙孝が食糧を持ってくると再び申し出て煮られることを願うと、賊はその義に感じ害さなかった。鄉里はその義を称え、辟召にも礼をもって進退した。永平中、太尉府に辟され、のち顕宗の詔で諫議大夫、侍中、長楽衛尉に進んだ。弟の趙礼も御史中丞となり、兄弟の篤行を帝が愛で、十日に一度衛尉府で共に食事する栄誉を賜った。趙礼の死後、趙孝は喪を郷里まで見送り、のち衛尉のまま病を得て家で没した。子がなく、趙礼の二子が郎に任じられた。
  • 汝南の王琳は十余歳で父母を失い、乱世に弟の季と塚廬を守っていたが、季が赤眉に捕らえられ食われようとした際、自ら縛につき身代わりを願い、賊は憐れんで放った。琅邪の魏譚も同様に賊に捕らえられたが、炊事を任され哀れまれて釈放された者たちと共に助かった。斉国の児萌、梁郡の車成の兄弟も同じく捕らえられたが身代わりを願って共に助かった。