後漢書卷六十九 劉趙淳于江劉周趙列傳第二十九 淳于恭

淳于恭

  • 淳于恭、字は孟孫、北海淳于の人、老子の清静を好み栄名を求めなかった。家の果樹を人が盗んでも助けて収穫させ、稲を刈る盗人を見ても恥じさせぬよう草に伏して隠れた。王莽末の饑饉の際、兄の淳于崇が賊に煮られかけると身代わりを願い、共に助かった。兄の死後は遺児を養育し、学ばぬ時は自ら杖打って反省させた。賊乱の中でも農耕を続け、郷人に「私が耕さずとも他人には影響しない」と答えた。建武中、郡・司空の辟召に応ぜず琅邪黔陬山に隠棲すること数十年、建初元年、粛宗の詔で議郎に召され、侍中・騎都尉に進んだ。推薦した賢者は皆用いられ、帝は政事を語るたびに称賛した。建初五年、病篤く没し、詔で穀千斛を賜り、閭に石を刻んで表彰、子の淳于孝を太子舎人とした。