後漢書卷六十八 張法滕馮度楊列傳第二十八 度尚

知略で反乱を鎮めた将

  • 度尚は字を博平、山陽湖陸の人である。家が貧しく学問を修めず郷里に推挙されなかったが、困窮の末、同郡の宦者侯覧の田畑を管理して郡の上計吏となり郎中を拝命した。上虞の長に任じられ、政は厳峻で姦を摘発することに明るく吏人から「神明」と呼ばれた。文安令に転じたとき疫病と飢饉に見舞われたが倉廩を開いて救済し民はその恩恵を受けた。冀州刺史朱穆が行部でこれを見て高く評価した。
  • 延熹五年(162年)、長沙・零陵の賊七、八千人が「将軍」を称し桂陽・蒼梧・南海・交阯に侵入し、交阯刺史・蒼梧太守は逃げ去り両郡は陥落した。御史中丞盛脩が募兵で討ったが討ち切れず、豫章艾県の応募兵六百余人が恩賞に与れず恨んで反乱を起こし長沙の郡県を焼き益陽で県令を殺し勢いを増した。謁者馬睦が荊州刺史劉度を督して撃ったが敗走した。桓帝は公卿に劉度の後任を挙げさせ、尚書朱穆の推挙で度尚は右校令から荊州刺史に抜擢された。
  • 度尚は部曲と労苦を共にし諸蛮夷を広く募り懸賞を明示して大破し数万人を降した。桂陽の宿賊の頭目卜陽・潘鴻らは度尚の威を恐れて山谷に退き、度尚は数百里を追撃して南海に入りその三屯を破り多くの財宝を得た。しかし卜陽・潘鴻の党はなお盛んで、士卒が驕り富んで戦意を失っていたため、度尚は策を用いた。「賊は十年戦い慣れており、兵が少ない今は攻めるべきでない、諸郡の兵が集まるのを待とう」と称して軍中に狩猟を許すと兵は喜んで獲物を追った。その隙に密かに人を送って賊の営の財宝の蓄えを焼かせた。獲物を持ち帰った兵は焼け跡を見て涙したが、度尚は一人一人を慰め自ら責を負う体で「卜陽らの財宝は幾世代分もある、諸君はただ力を合わせればよい、失った物は取るに足らぬ」と鼓舞すると、兵は憤り奮い立った。翌朝馬に秣を与え早めの食事をとらせ賊の屯へ直行すると、卜陽らは油断しており大破された。
  • 三年に及んだ討伐で群賊はことごとく平定され、延熹七年(164年)右郷侯に封じられ桂陽太守に遷った。翌年京師に召還されたが、荊州の兵である朱蓋らが久しい従軍で恩賞不足を恨んで再び乱を起こし桂陽の賊胡蘭ら三千余人と桂陽を攻め、太守任胤は城を棄てて逃げ賊は数万に膨らみ零陵まで攻めたが太守陳球が固守した。度尚は中郎将として幽州・冀州・黎陽の烏桓歩騎二万六千を率いて陳球を救援し、長沙太守抗徐らとも合流して大破し胡蘭ら三千五百級を斬った。残賊は蒼梧に逃げ、度尚には銭百万、他の者にもそれぞれ賜与された。
  • 抗徐は字を伯徐、丹陽の人で膽智で知られ、宣城長として深林幽藪の椎髻鳥語の人々(辺境の少数民族)を県に組み入れて境内の盗賊を絶ち、のち中郎将宗資の別部司馬として太山の賊公孫挙らを破り烏程東郷侯食邑五百戸に封じられた。太山都尉、長沙の宿賊平定でも功を挙げ官にて没し、桓帝は追封五百戸を増し併せて千戸とした。
  • 度尚は再び荊州刺史となったが、胡蘭の残党が蒼梧に逃げたことを自身の失点とみて偽って「蒼梧の賊が荊州境に入った」と上言し、交阯刺史張磐を廷尉に下したが罪状は定まらぬまま赦免となった。張磐は牢を出ようとせず「私は甲冑をまとい危険を冒して賊の渠帥を討ち滅ぼしたのに、度尚が自分の失策を恐れて私を誣告した。国の爪牙たる身が理不尽に罪を受け、そのまま赦されて出るのは生きては悪吏、死しては敗鬼となるに等しい。度尚を廷尉の前に召し出し真偽を明らかにしてほしい、それが叶わぬなら牢で骨を埋めるまで出ない」と訴えた。廷尉はこれを上奏し、度尚が召し出されて事情が窮まり罪を受けたが、以前の功により赦された。張磐は字を子石、丹陽の人で清白をもって知られ廬江太守で終えた。度尚はのち遼東太守となり数か月で鮮卑の攻撃を破って恐れられ、延熹九年(166年)五十歳で官にて没した。