後漢書卷六十四 梁統列傳第二十四 梁冀

専横を極めた大将軍

  • 商の子。字は伯車。容貌は鳶肩豺目(猛禽・猛獣のような相)で言葉も不明瞭ながら、酒色・賭博(彈棊・格五・六博)・蹴鞠・闘鶏に耽った放蕩の人物。父の客・呂放が冀の悪行を商に告げたことを恨み密かに暗殺、証拠隠滅のため呂放の一族百余人を皆殺しにするなど、若くして残虐な性格を示した。
  • 河南尹、大将軍を歴任し、順帝崩御後、冲帝・質帝を相次いで立てるが、質帝が幼くして冀の専横を「跋扈将軍」と評したことを恨み、毒殺した。桓帝擁立後、李固・杜喬ら反対派を処刑し専権を強めた。建和元年、封邑1万3千戸増、和平元年に合計3万戸、官属は三公の倍という異例の待遇を受けた。
  • 妻の孫寿は美貌と妖艶な化粧(愁眉・啼粧・堕馬髻・折腰歩・齲歯笑)で世の流行を作り、襄城君に封じられ長公主に准じる待遇を受けた。冀と孫寿は互いに邸宅の豪奢を競い、隠室・複道・築山・莬苑(数十里に及ぶ狩猟園、莬の毛に印をつけ誤射者を死罪にするほどの厳格な禁令)を築いた。
  • 冀・孫寿間の私通事件(父の献じた美人友通期を巡る争い、孫寿による報復と冀の隠し子・伯玉の誕生)や、監奴の秦宮を通じた壻の権勢利用、士孫奮からの5千万銭の強要と一族誅殺(1億7千万の財を没収)など、数々の暴虐が記される。刺史・太守の任免、地方からの貢献の横取り、賓客・妻略・殺傷が横行し、天下の怨嗟を集めた。
  • 郎中袁著が19歳で「大将軍は懸車の礼(引退)に遵うべし」と上書したが、冀は変名で身を隠した著を密かに突き止め笞殺、連座して郝絜・胡武ら60余人が誅殺される凄惨な粛清も行った。弟の梁不疑は経書を好み士人と交わったが、これも冀の忌避を招き光禄勲に降格された。
  • 一門は前後7侯・3皇后・6貴人・2大将軍夫人・食邑を持つ「君」7人・尚公主3人・卿将尹校57人を輩出し、20余年権勢を振るったが、延熹2年、太史令陳授の日食奏上(大将軍に凶あり)を機に冀が陳授を獄死させたことが桓帝の怒りに火をつけた。
  • 掖庭の梁猛(実は鄧氏の娘)を巡る事件で、冀が刺客を放って邴尊を暗殺し宣(猛の母)をも狙ったことが露見、桓帝は中常侍単超・具瑗・唐衡・左悺・徐璜の5人と共謀し冀誅殺を決行。尚書令尹勲を通じて宮中を制圧、光禄勲袁盱が冀の印綬を没収、冀と孫寿は即日自殺した。一族(子の允、叔父の讓、従弟の淑・忠・㦸ら)は皆棄市、連座した公卿・列校・刺史・二千石は数十人、罷免された故吏賓客は300余人に及び、朝廷はほぼ空になったという。冀の財産は30余万万銭に上り、税半減の原資となった。

史論(総括)

  • 論じて言う。順帝の代、梁商は賢輔と称されたが、これは権勢の頂点にありながら愿謹(慎み深さ)を貫いたからである。宰相の運動は天人に感応する要職であり、道に中れば政を興しやすく、務めに乖けば物を御しがたい。商は匡救に努めたが厚薄の術には至らず、まして子の冀を宦官と交わらせたことが破家傷国の因となったのは、決して偶然ではない。
  • 賛に曰く。河西で漢を佐けた梁統は定算を成した(竇融と共に光武帝への帰順を定めた功)。襃親(梁竦)は幽憤の末に栄誉を得た。梁商は善柔(決断の甘さ)を悔い、梁冀はついに貪乱に至った、と。