宗廟礼制を定めた大司空
- 張純、字は伯仁。京兆杜陵の人。高祖父の安世は宣帝期の大司馬衛将軍・富平侯。父の放は成帝期の侍中。純は若くして爵位を継ぎ、王莽の簒奪を経ても敦謹に爵位を保ち、建武初、光武帝への帰順で本国を回復した。
- 太中大夫、五官中郎将を経て、光武帝に「宗室でなくとも旧功により廃すべきでない」と評され武始侯に改封。朝儀・郊廟・婚冠・喪紀の礼儀の多くを正定し重用された。
- 建武19年、太僕朱浮と共に宗廟の昭穆秩序(南頓君以下、光武帝の私親を高廟の序列に加えるべきでない)を上疏し、大司徒戴渉・大司空竇融の議を経て「宣帝・元帝を祖・父とし、南頓君以下は別に皇考廟を立てる」制度が定められた。
- 太僕、大司空を歴任し曹参の「無為の政」を慕い名儒を掾史に登用、陽渠を通し洛水漕運を開いた。建武26年、禘祫(宗廟合祀)の礼制を上奏し、「三年に一度の祫祭、五年に一度の禘祭」の周礼の原則に基づき8年間途絶えていた儀礼を再興させた。
- 建武30年、封禅を上奏し(「攝提の歳、蒼龍甲寅、徳は東宮にあり」の吉兆を根拠に)、中元元年、泰山封禅に御史大夫格で従った。同年3月に薨去し節侯と諡された。子の張奮が嗣いだ。