後漢書卷六十三 朱馮虞鄭周列傳第二十三 朱浮

彭寵の反乱と失脚

  • 朱浮、字は叔元。沛国蕭の人。大司馬主簿から偏将軍を経て幽州牧・薊城守。建武2年、舞陽侯・食3県。若く才能があり士心を得ようとしたが、漁陽太守彭寵と官属の増員を巡り対立、峻厳な言辞で詆り、両者の怨みが積もった。
  • 彭寵挙兵に対し、浮は長文の書簡で「知者は時に順い、愚者は理に逆らう」と説き、周の京城太叔の故事や高祖の恩義を引いて翻意を促したが(「遼東の白頭の豕」の比喩で寵の慢心を戒めた)、寵は聞き入れず攻撃を強めた。涿郡太守張豐の反乱も重なり、浮は光武帝に親征を求める上疏を行うが容れられず、薊城は兵糧尽き陥落、浮は妻を自ら刺殺し辛くも脱出した。
  • 尚書令侯霸の弾劾を受けるも光武帝は浮を赦し、賈復に代わり執金吾に任じた。永平年間、二千石の任用が不安定な状況を憂い、日食を機に「守宰の頻繁な交代は民心を不安にする」と上疏、また太学振興と博士選抜の充実を建言し功績を挙げた。建武20年大司空、22年国恩を売った罪で免官、25年新息侯に降格。永平年間、無根拠の告発により顕宗(明帝)の怒りを買い賜死されたが、長水校尉樊儵が堯舜の慎重な司法(四凶の裁きの故事)を引いて諫めたため、帝は後に悔いたという。

史論(朱浮)

  • 論じて言う。呉起と田文の功績論争、朱買臣と公孫弘の議論の故事を引き、宰相には固有の体(あり方)があると説く。光武帝・明帝は吏事を好み三公を厳しく評価したため、朱浮のような功臣にすら苛烈な処遇が及んだ。孔子の「速やかならんと欲すれば達せず」との戒めが想起されると評す。