後漢書卷五十六 伏侯宋蔡馮趙牟韋列傳第十六 伏湛

乱世を鎮めた大司徒

  • 伏湛、字は恵公。琅邪東武の人。九世祖は済南伏生こと伏勝。父の理は成帝期の名儒で高密太傅。湛は孝友篤実で数百人に教授し、成帝期に博士弟子から昇進し王莽期には繡衣執法(御史)を務めた。
  • 更始政権下、平原太守として世の混乱の中も教授を続け、「一穀不登、国君は膳を減らす」と述べて俸禄をすべて分け被災民百余家を救済。門下督が兵を挙げようとした際は即座に斬って民心を鎮め、平原一郡を安定させた。
  • 光武帝即位後、尚書として旧制の整備に携わり、鄧禹の関中出征中は司直として大司徒事を代行、建武3年正式に大司徒・陽都侯。彭寵討伐への光武帝親征に対し、文王の故事(同姓・群臣・占卜を経て行動する慎重さ)を引いて諫めた長文の上疏が伝わる。
  • 徐異卿ら賊徒が「司徒伏公になら降る」と申し出て平定に成功する功もあったが、河南尹らの廟内の争論を上奏しなかった罪で策免され、不其侯(食邑3600戸)に降格・封国へ。後に南陽太守杜詩が湛の徳と才を称える上疏を行うが用いられず、建武13年に病没。子の隆→翕→光→晨→無忌→質→完と続き、完は桓帝の女婿となったが、献帝の皇后が曹操に廃されると伏氏一族も誅殺され国除となった。伏氏は代々「争わぬ家」として知られたという。