後漢書卷五十五 卓魯魏劉列傳第十五 魯恭

経学を以て理民

  • 魯恭、字は仲康。扶風平陵の人。祖父の匡は王莽の羲和として知略に富み「智嚢」と呼ばれた。父は建武初に武陵太守として卒官、恭は12歳、弟の丕は7歳で喪に服し、その哀悼は成人以上と評された。15歳で母・丕と共に太学に入り魯詩を学び、兄弟共に諸儒に称された。
  • 太尉趙熹の招きにも辞退し弟の丕を先に立てるため自らは仕官しなかったが、建初初年に丕が方正に挙げられると恭も郡吏となる。中牟令として徳化に努め、田を争う訴訟人を諭して自ら反省させ耕作を譲り合わせた逸話や、牛を借りて返さない者を諭し悔悟させた逸話が伝わる。
  • 河南尹袁安が中牟の善政(螟害が境を侵さない、雉が童子の傍で雛を守る等の「三異」)を疑い視察させたところ事実と確認され、上奏された。中牟の善政3年の後、母の喪で辞官。侍御史を経て和帝初、竇憲・耿秉の匈奴討伐に対し「農繁期の出兵は天の心に逆らう」と諫める長文の上疏を行うが用いられず。
  • 魯詩博士、侍中を経て樂安相となり、賊魁の張漢らを懐柔して郡を平定。永元9年議郎、光禄勲を経て永元12年司徒。永元15年、南陽巡幸に従う。永初元年、殤帝の下で再び司徒に。和帝末の「立秋を待たず盛夏に断獄する」風潮を批判し、陰陽の理に基づき薄刑は立秋以降に行うべきと上疏、鄧太后の詔議でも採用された。晩年、賢者推挙の偏りを批判されても「学ばざるを憂う」と応じ剛直を誇らなかった。80歳を超えて没した。