後漢書卷五十二 朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二 馬武

剛直な猛将

  • 馬武、字は子張。南陽湖陽の人。若くして仇を避け江夏に寓居、更始の下で世祖に従い王尋らを破る。謝躬誅殺後、世祖に帰服し重用された。
  • 世祖の北征に従い、尤来・五幡討伐で殿軍を務めて全軍を守った功績が大きい。光武即位後侍中・騎都尉・山都侯。建武4年劉永討伐、捕虜将軍。建武6年隗囂討伐で危機に陥った本隊の後拒を務め奮戦。建武13年鄃侯、のち揚虚侯に定封。
  • 酒好きで闊達、殿中でも酔って同列の短を面と向かって指摘するほどであったが、光武はこれを笑って許し、功臣を厚遇し続けた。永平初、武陵蛮討伐、顕宗期には西羌討伐で捕虜将軍として金城・浩亹の戦いで羌を破り、東西邯でも大勝(斬首4600級、生口1600人捕獲)。永平4年没。子の檀は兄の顔忠が楚王英に連座し国除となったが、永初7年鄧太后が武の孫・震を漻亭侯に再封した。

史論

  • 論じて言う。中興二十八将を「二十八宿に応ず」とする説は詳らかでないが、いずれも風雲に乗じて智勇を発揮し、佐命の功臣と称される。光武は功臣を要職に任じなかったとの非難があるが、それは深謀に基づくものである。周代の管仲・隰朋、晋文公の趙衰のような賢臣の登用に比べれば、光武の処遇は寛やかであった。
  • 秦漢以来、武人が起こって王業を助け、時に舞陽侯樊噲・潁陰侯灌嬰のような屠沽の徒も丞相・列侯に取り立てられたが、勢いが疑われ力が拮抗すれば争いが生じ、蕭何・樊噲・韓信・彭越らはついに刑戮に遭った。それ以降、武帝期まで宰輔は代々公侯の子弟が独占し、賢才の道が塞がれた。
  • 光武はこの弊を鑑み、寇恂・鄧禹・耿弇・賈復ら高勲の臣にも封土は大県数個にとどめ、特進・奉朝請の待遇に留めた。厳しく罰しすぎれば旧恩を損ない、寛容にしすぎれば禁典を廃することになるため、功に応じた秩禄と峻厳な法運用を両立させ、建武年間の列侯は百余人に及んだ。特に功臣中でも高密侯(鄧禹)・固始侯(李通)・膠東侯(賈復)の3侯のみは公卿と共に国政に参与し、他は寛やかな待遇のまま封禄を全うさせた。
  • 張良が「高祖は蕭何・曹参ら旧知の者ばかりを重用した」と評し、郭伋も光武に対し南陽出身者偏重を諫め、鄭興も功臣専任を戒めた逸話が引かれる。永平年間、顕宗は南宮雲台に二十八将の像を画かせ、それ以外に王常・李通・竇融・卓茂を加えた三十二人とし、その旧来の序列のまま篇末に列記して功臣の次第を記す。
  • 雲台三十二将の列記:太傅高密侯鄧禹/中山太守全椒侯馬成/大司馬廣平侯呉漢/河南尹阜成侯王梁/左将軍膠東侯賈復/琅邪太守祝阿侯陳俊/建威大将軍好畤侯耿弇/驃騎大将軍参蘧侯杜茂/執金吾雍奴侯寇恂/積弩将軍昆陽侯傅俊/征南大将軍舞陽侯岑彭/左曹合肥侯堅鐔/征西大将軍陽夏侯馮異/上谷太守淮陽侯王霸/建義大将軍鬲侯朱祐/信都太守阿陵侯任光/征虜将軍潁陽侯祭遵/豫章太守中水侯李忠/驃騎大将軍櫟陽侯景丹/右将軍槐里侯萬脩/虎牙大将軍安平侯蓋延/太常靈壽侯邳彤/衞尉安成侯銚期/驍騎将軍昌成侯劉植/東郡太守東光侯耿純/橫野大将軍山桑侯王常/城門校尉朗陵侯臧宮/大司空固始侯李通/捕虜将軍揚虚侯馬武/大司空安豐侯竇融/驃騎将軍慎侯劉隆/太傅宣德侯卓茂。
  • 賛に曰く。帝の事績は功臣を思い、群臣は帝の戎車の勝利を助けた。その姿は龍のように親愛深く、共に大功を飛翔させたと。