後漢書卷五十二 朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二 朱祐
出自と挙兵への参加
- 朱祐、字は仲先。南陽宛の人。幼くして父を失い、外家の復陽劉氏に身を寄せ舂陵を往来し、劉秀・劉伯升兄弟に親愛された。
- 伯升が大司徒となると祐を護軍とした。世祖(光武帝)が大司馬として河北を討つと再び護軍とし、常に側近く仕えた。祐が「長安の政は乱れ、公には日角の相がある。これは天命だ」と持ちかけると、光武は驚いて刺姦官に命じ祐を捕らえさせようとしたため、祐はそれ以後この話をしなかった。
建武年間の転戦
- 河北討伐で力戦して陥陣し、偏将軍・安陽侯に。光武即位後は建義大将軍・堵陽侯。
- 鄧奉との淯陽の戦いで敗れて捕らわれるが、翌年鄧奉降伏に伴い元の地位に復し、隨県などを平定。
- 延岑・秦豊の残党討伐で戦功を重ね、東陽で延岑を破って張成を斬り、印綬97個を得るなど各地を平定。秦豊を黎丘に囲み、最後は秦豊が母妻子ら9人と肉袒して降ったが、祐は独断で降伏を受けたとして大司馬呉漢に弾劾された。光武は罪を問わなかった。
- 祐は人柄実直で儒学を好み、降伏者を多く受け入れて首級の功を求めず、略奪を禁じたため、放縦を好む兵に恨まれることもあった。
- 建武9年、南の行唐に屯して匈奴を防ぐ。建武13年、鬲侯に定封され食邑7300戸(本人は南陽の500戸で十分と辞退したが許されず)。建武15年、大将軍の印綬を返上し朝請の身分に。三公の称号簡素化などを上奏し採用された。
- かつて長安遊学中、光武が自ら祐の第に足を運んだ逸話が伝わる。建武24年に没し、子の商が継いだ。商の子の演は、永元14年に従兄の巫蠱事件連座で庶人に落とされたが、永初7年に鄧太后が演の子・冲を鬲侯に再封した。