後漢書卷五十一 任李萬邳劉耿列傳第十一 耿純

耿純(字は伯山、鉅鹿宋子の人、?–37年)。宗族賓客を率いて光武帝に帰服し、自邸を焼いて退路を断つ覚悟を示した。真定王劉揚の誅殺や東郡太守としての治績で知られ、文治に長じた功臣。卒官し成侯と諡された。

年表(5件)

出自と邯鄲攻略への貢献

  • 耿純は字を伯山といい、鉅鹿郡宋子の人である。父の艾は王莽の済平尹であった。純は長安で学び納言士に任じられた。
  • 王莽が敗れ更始が立つと、舞陰王・李軼が諸郡国を降させる使者となり、純の父・艾も降って済南太守となった。当時李軼兄弟が権勢を専らにし遊説者が多く集まる中、純は久しくして軼に謁見でき、龍虎の勢いに乗じながらも徳信が民に及ばぬことを危惧すべきと説いた。軼は純を鉅鹿の大姓の出として重んじ、承制して騎都尉とし節を授けて趙魏の安集を命じた。
  • 世祖が河を渡り邯鄲に至ると、純は謁見し深く信任された。純は退いて自らの兵の統率法度が他将と異なることを見せ、馬・縑帛数百匹を献じて結びを深めた。世祖が北の中山に至った際、純を邯鄲に留めたが王郎が反乱、純は従兄の訢・宿・植とともに宗族賓客二千余人を率い(老病者は棺を伴わせて)、育で世祖を出迎えた。
  • 純は前将軍・耿郷侯に封じられ、訢・宿・植はいずれも偏将軍となり先鋒を務め、宋子を降し下曲陽・中山を攻略した。当時多くの郡国が邯鄲に降る中、純は宗族の離反を恐れ、訢・宿に自邸を焼かせた。世祖が理由を問うと、純は「重賞のみで人を集めているのではなく恩徳による帰服である」と答え、宗族に退路を断たせたことを説明、世祖は嘆息した。
  • 鄗で大姓・蘇公が城を挙げて反し王郎の将・李惲を迎え入れた際、純は先に気づき撃破して斬った。邯鄲平定に従い、さらに赤眉・青犢・上江・大彤・鐵脛・五幡ら十余万が射犬に集結した際、純の軍が夜襲を受けたが堅守し、決死隊二千人に強弩を持たせ枚を銜んで敵の背後に回り込ませて撃破した。世祖はこれを労い、純の宗族を軍中から蒲吾に移し居らせた。

東郡太守としての治績

  • 世祖の即位後、高陽侯に封じられ、劉永討伐の陣中で落馬し負傷、懐宮で療養。帝が後任を問うと純は従弟の植を推挙し、植が軍を率いた。
  • 真定王・劉揚が再び讖記を作り惑衆したため、建武二年、陳副・鄧隆が徴召に赴いたが揚は拒否、純が節を持って幽冀に赦令を布告する使者として遣わされ、密勅により揚を捕らえることとなった。純は百余騎で副・隆と元氏に会し真定に至った。揚は病と称して謁見せず、純に文書で面会を求めたが、純は「先に伝舎へ出るべし」と返答。揚の弟・林邑侯譲、従兄の細がそれぞれ兵万余を擁す中、純は少人数で赴き、揚とその兄弟を伝舎に招き入れて閤を閉ざし誅殺した。真定は震え動く者はなかった。帝は謀反が未発であった譲・讓の子を許して封を復した。
  • 純は京師に戻り、武功より文治に携わりたいと願い出て東郡太守となった。数月で盗賊を鎮め、建武四年、更始の東平太守・范荆を降し、太山・済南・平原の賊を平定。四年間の在任後、発干長の罪を糾弾したところ長は自殺、純はこれに連座して免ぜられ列侯として奉朝請となった。
  • 董憲討伐に従軍する道中、東郡の百姓が「耿君を再びいただきたい」と車駕に涙を流して訴えたため、帝は諸侯の就国に際し純を建武六年に東光侯に定封した。文帝が周勃丞相を厚遇した故事になぞらえ帝は純を重んじ、就国に穀万斛を賜った。
  • 建武八年、東郡・済陰の盗賊が蜂起した際、衛地での純の威信により太中大夫として派遣され、盗賊九千余人が純に降り戦わずして鎮まった。璽書で再び東郡太守とされ、建武十三年に卒官。諡は成侯。
  • 子の阜が跡を継ぎ、植の系統は後に輔威将軍・武邑侯、宿は代郡太守・遂郷侯となり、訢は赤眉将軍・著武侯となり鄧禹の西征に従い雲陽で戦死した。耿氏一族で列侯に封じられた者四人、関内侯三人、二千石九人を数えた。阜は莒郷侯に改封されたが、永平十四年、同族の耿歙が楚人・顔忠の獄に連座した罪に連なり国が除かれた。建初二年、粛宗は純の功を追思し阜の子・旴を高亭侯に再封、旴が没し嗣子なく、弟の騰が跡を継いだ。騰が没すると子の忠、忠が没すると孫の緖が跡を継いだ。

史論(劉植・耿純伝)

  • 賛に曰く、任光・邳彤は事の機微を識り堅城の門を開いた。恭しく世祖の還幸に従い、二人の太守(信都太守の任光、和成太守の邳彤)が頼りとなった。耿純・劉植は義に発して兵を挙げ、その威を助けた。