出自と光武帝への献策
- 邳彤は字を偉君といい、信都の人である。父の吉は遼西太守であった。彤は初め王莽の和成郡卒正であったが、世祖が河北を巡って下曲陽に至ると彤は城を挙げて降り、太守に留任した。
- 世祖が薊に至り王郎が挙兵すると、諸県は皆その将を迎え入れたが、和成・信都だけは堅守した。彤は世祖が薊から敗走したと聞くと五官掾・張万、督郵・尹綏に精騎二千余を選ばせ道々世祖を迎えさせ、自らも信都で世祖に会した。
- 世祖が二郡の助を得ながらも兵勢がなお足りず、議者の多くは信都の兵を頼みに西の長安に帰るべしと説いたが、彤は廷対して反対した。「吏民は久しく漢を慕っている。更始が尊号を挙げるや天下が呼応した。今、明公は二郡の兵を奮って攻めればどの城も陥落し、どの軍も服す。ここで帰れば河北を失うだけでなく三輔をも驚動させ威重を損なう。もし西帰の意がないなら信都の兵の結集も難しい。なぜなら明公が西に去れば邯鄲の民は城主を捨てて千里を送りには来ず、離散するのは必至だからだ」と説き、世祖はこれを容れて留まった。
- 世祖は彤を後大将軍・和成太守(もとのまま)とし、先鋒として北の堂陽へ向かわせた。堂陽は既に王郎に転じていたが、彤は張万・尹綏に吏民を諭させ、世祖が夜に至ると開門して迎えた。中山の白奢の賊を破り、以後常に従軍した。
- 信都が再び王郎に転じ、王郎の立てた信都王が彤の父・弟・妻子を捕らえ、降れば封爵、降らねば族滅すると迫ったが、彤は涙を流しつつ「主に仕える者は家を顧みない。私の親族が今日まで無事なのは劉公の恩である。公は今国事を争っている、私事を考える時ではない」と応じた。更始の将が信都を攻め落とし王郎の兵が敗走したことで彤の家族は無事であった。邯鄲攻略後、武義侯に封じられた。
- 建武元年、霊寿侯に改封し大司空事を代行。世祖の洛陽入りとともに太常、月余りで少府、その年のうちに免ぜられ左曹侍中となった。建武六年、就国。没後、子の湯が跡を継ぎ、建武九年に楽陵侯に改封された。
- 建武十九年、湯が没し子(名は伝わらない)が跡を継いだが子がなく国は除かれた。元初元年、鄧太后が彤の孫・音を平亭侯に再封、音が没すると子の柴が跡を継いだ。彤とともに世祖を迎えた張万・尹綏はともに偏将軍となり従軍、万は重平侯、綏は平台侯に封じられた。
史論(邳彤伝)
- 論に曰く、事が成就すればその功績によって計略も明らかとなるが、事の兆しはまだ道理が隠れて見えにくい。二郡の兵を頼みに関に入る策を唱えた議者たちに対し、邳彤の廷対はまさに事の機微を見抜いたものであった。「一言もって邦を興すべし」とはこのことに近い。