後漢書卷五十一 任李萬邳劉耿列傳第十一 李忠

出自と信都籠城

  • 李忠は字を仲都といい、東莱郡黄の人である。父は高密国の中尉であった。
  • 元始年間、父の任により郎となった。多数の郎の中で忠だけが礼を好み身を律することで知られた。王莽の代には新博の属長となり郡中の信望を集めた。
  • 更始帝が即位すると使者により郡都尉を拝命。任光とともに世祖に仕え、右大将軍・武固侯となった。世祖は自ら帯びていた綬を解いて忠に与えた。
  • 従軍して属県を下し苦陘に至った際、諸将が財物を得る中、忠のみが掠奪しなかった。世祖はこれを特に賞し、乗馬の大驪馬と繍被・衣物を賜った。
  • 鉅鹿を囲んで下せずにいる間、王郎の将が信都を攻め、大姓の馬寵らが城を開いて内応し、太守の宗広および忠の母・妻を捕らえ親族を使って忠を招こうとした。寵の弟は忠に従う校尉であったが、忠は直ちに召し出し背恩の罪で処刑した。諸将は「家族が人手にある中で弟を殺すとは」と驚いたが、忠は「賊を許せば二心を抱くことになる」と答えた。
  • 世祖はこれを称え、忠に老母妻子を救うため帰るよう勧めたが、忠は「明公の大恩を蒙り効命を望むのみ、私情は顧みない」と応じた。世祖は任光に救援の兵を送らせたが、光の兵は途中で王郎に降り散じて功なく帰った。やがて更始の将が信都を攻め破ったため忠の家族は無事であった。忠は帰郡して太守事を代行し、邯鄲に付いた大姓数百人を誅殺した。任光の帰郡後、忠は都尉に復した。

丹陽太守としての治績

  • 建武二年、中水侯に改封、食邑三千戸。同年、五官中郎将に召され、龎萌・董憲らの討伐に従った。建武六年、丹陽太守に遷った。
  • 当時、海内平定は緒についたばかりで南方の海浜・江淮には多く拠兵する者があったが、忠は招撫し、服さぬ者は誅して旬月で平定した。丹陽は越の風俗が残り婚姻の礼が中国と異なっていたため、忠は学校を建て礼容・春秋の郷飲酒礼を習わせ、明経の者を選用した。郡中はこれに感化され墾田が増え、三年の間に流民で戸籍を得た者は五万余口に及んだ。
  • 建武十四年、三公の考課で天下第一と評された。豫章太守に遷ったが病により去官し、京師に召され建武十九年に没した。子の威が跡を継ぎ、威が没すると子の純が跡を継いだ。永平九年、母が純の叔父・季を殺した罪に連座して国が除かれた。永初七年、鄧太后が純を琴亭侯に再封し、純が没すると子の広が跡を継いだ。