後漢書卷五十一 任李萬邳劉耿列傳第十一 任光

出自と信都太守としての籠城

  • 任光は字を伯卿といい、南陽郡宛の人である。若くして忠厚で郷里に愛された。はじめ郷嗇夫、のち郡県の吏となった。
  • 漢兵が宛に至った際、光の立派な冠服を見た兵士に殺されかけたが、たまたま光禄勲・劉賜が通りかかり容貌を見て助けた。光はその党与を率いて賜に従い安集掾となり、偏将軍を拝命。世祖(光武帝)とともに王尋・王邑を破った。
  • 更始帝の洛陽入りに伴い、光は信都太守となった。王郎が挙兵すると郡国は皆これに降ったが、光だけは応じず、都尉の李忠・令の万脩・功曹の阮況・五官掾の郭唐らと心を一つにして城を固守した。王郎の檄を持ってきた廷掾を府に引き入れ、光は市でこれを斬って民衆に示し、精兵四千人を発して城を守った。
  • 更始二年春、世祖が薊から狼狽して逃れる中、信都だけが漢に応じ邯鄲を拒んでいると聞き馳せ向かった。光ら孤城の守りは援軍なく心細かったが、世祖の到来に吏民は皆万歳を唱え、李忠・万脩とともに官属を率いて出迎え世祖を伝舎に迎えた。
  • 世祖が「今の勢力は弱いが、城頭子路・刁子都の軍勢に入るのはどうか」と問うと、光は反対し、「奔命の兵を募り近隣の県を攻め、降らぬ者は掠奪を許せば兵は集まる」と献策、世祖はこれに従った。
  • 光は左大将軍・武成侯に封じられ南陽に留まり、宗広に信都太守事を代行させて自らは兵を率いた。光は「大司馬劉公が城頭子路・刁子都の軍百万を率いて東方より来たり反虜を討つ」との檄文を作り、鉅鹿方面に伝えさせると吏民は動揺し伝え合った。
  • 世祖は光らとともに夜、堂陽に入り、騎兵に松明を持たせて沢に満たせたため、その光が天地を照らし城中は震え怖れ、その夜のうちに降った。以後十日ほどで兵は大いに増え、邯鄲を屠るに至り、光は郡に帰された。
  • 城頭子路(本名は爰曾、字子路)は東平の人で肥城の劉詡と盧城で挙兵し、更始に降って東莱郡太守(本来「郡」字は不要な衍字との指摘あり)に、詡は済南太守に任じられたが、曾は部将に殺され、衆は詡を推戴した。更始は詡を助国侯に封じ兵を解かせた。
  • 刁子都は東海の人で郷里で挙兵し徐兖の間を侵し、更始により徐州牧に任じられたが部曲に殺され、残党は檀郷で合流し「檀郷」の名で呼ばれた。渠帥・董次仲は茌平で起こり、河を渡って魏郡・清河に入り五校と合流、十余万に達した。建武元年、世祖の命で呉漢らがこれを攻め、翌年春に大破・降伏させた。
  • この年、光は阿陵侯に改封され食邑万戸を得た。建武五年、京師に召され奉朝請となり、その冬に没した。子の隗が跡を継いだ。阮況は南陽太守、郭唐は河南尹となり、いずれも治績で知られた。

任隗――清静と直言(附伝)

  • 隗は字を仲和といい、若くして黄老の学を好み清静寡欲であった。得た俸禄は常に宗族の窮乏者に施し、孤児寡婦を養った。
  • 顕宗(明帝)に見出されて奉朝請に擢用され、羽林左監・虎賁中郎将、長水校尉を歴任。肅宗(章帝)の代には将作大匠となった(それまで将作大匠は謁者が兼任する慣例であったが、隗が正式に任じられた最初となった)。
  • 建初五年、太僕に遷り、八年には竇固に代わって光禄勲となり、いずれも称賛された。章和元年、司空を拝命。行動は義に篤く名誉を求めなかった。
  • 和帝の即位後、大将軍・竇憲が権を専らにし朝臣は皆おそれ従う中、憲が匈奴征伐で国用を浪費すると、隗は召還を求める上奏を前後十回にわたって行い、司徒・袁安と心を一つにして持重・直言を貫いた(詳細は袁安伝に見える)。
  • 永元四年に没し、子の屯が跡を継いだ。帝は隗の忠節を思い屯を歩兵校尉に擢用し、のち西陽侯に改封。屯が没すると子の勝が跡を継ぎ、勝が没すると子の世が跡を継ぎ北郷侯に改封された。