出自と光武帝への従軍
- 王霸は字を元伯といい、潁川郡潁陽の人である。世々法律の学を好み、父は郡の決曹掾であった。霸も若くして獄吏となったが慷慨として職を楽しまず、父はその器量を認め長安に遊学させた。
- 漢兵が起こると、光武帝が潁陽を過ぎた際、霸は賓客を率いて謁見し従軍を願い出た。昆陽で王尋・王邑を撃破する戦に従い、いったん郷里に戻った。
- 光武帝が司隷校尉となり潁陽を過ぎた時、霸は父に従軍を願い出、父は老齢を理由に自ら行かせた。霸は洛陽で功曹令史となり河北に従ったが、賓客の多くは次第に去っていった。光武帝は「潁川より従った者は皆去ったが、そなただけは残った。疾風に勁草を知る、というものだ」と評した。
- 王郎が挙兵し光武帝が薊にあった時、光武帝は霸に市中で募兵させたが、市人は大笑いして嘲った。霸は恥じて戻った。
- 光武帝が下曲陽へ南下する途上、滹沱河で川が氷解して船もなく渡れないとの報告があり、一同は動揺した。霸は様子を見に行き、動揺を恐れて「氷は堅く渡れる」と偽って報告、一同は喜んで前進、実際に川は氷結しており霸に渡河の指揮を命じたところ、渡り終える直前に氷が解けた。光武帝は「わが軍勢を無事に渡せたのは卿の功だ」とねぎらい、霸は「これは明公の至徳と神霊の加護によるもので、武王の白魚の瑞応にも勝る」と応じた。光武帝はこれを天の瑞と評した。
- 霸は軍正・関内侯となり、信都に至って兵を発し邯鄲を攻略、王郎を追斬してその璽綬を得、王郷侯に封じられた。
- 河北平定の後、霸は独り兵士をいたわり、戦死者には自ら衣を脱いで殮し、負傷者を自ら世話した。光武帝の即位後、その用兵と士卒への愛情を評価され偏将軍となり、臧宮・傅俊の兵をも統率、両人は騎都尉となった。
上谷太守としての功績
- 建武二年、富波侯に改封。四年秋、帝の譙行幸に従い馬武とともに垂惠の周建を討ったが、蘇茂の援軍に阻まれ苦戦。霸は軍議で「今は閉営して守りを固め、敵の鋭気を消耗させるべし」と主張、これに従い後に出撃して大破した。
- のち茂・建が夜襲を仕掛けた際も霸は動じず宴楽を装い、動揺せずに敵の疲弊を待って撃退した。周建の甥の誦が城を挙げて降った。
- 建武五年、討虜将軍を拝命。六年に新安、八年に函谷関で屯田を行い、滎陽・中牟の盗賊を平定。九年、呉漢らとともに盧芳の将・賈覽らを高柳で攻めたが匈奴の援軍に阻まれ苦戦、霸は上谷太守として屯兵を任され郡境を越えて胡虜を追撃する権を与えられた。
- 翌年、再び高柳で賈覽を攻め、匈奴左南将軍の援軍を平城下で破り数百級を斬った。鴈門で盧芳の将・尹由を崞・繁畤に攻めたが下せなかった。
- 建武十三年、向侯に改封。盧芳が匈奴・烏桓と結んで辺境を侵すため、霸は刑徒六千余人を率い杜茂とともに飛狐道を開き、代から平城まで三百余里に亭障を築いた。匈奴・烏桓との大小の戦は数十百戦に及んだ。
- 辺事に通じ、匈奴との和親や温水による輸送を上書した。のち南単于・烏桓が服属し北辺は無事となった。霸は上谷に二十余年在任、建武三十年に淮陵侯に定封。永平二年に病により免官、その後没した。
- 子の符が跡を継ぎ[車*犬]侯に改封、符が没すると子の度が跡を継ぎ顕宗の女・浚儀長公主を娶り黄門郎となった。度が没すると子の歆が跡を継いだ。