出自と武勇
- 銚期は字を次況といい、潁川郡郟の人である。身長八尺二寸、容貌は人並み外れ、威厳に満ちていた。
- 父の猛は桂陽太守で在任中に没し、期は三年の喪に服して郷里に称えられた。
- 光武帝が潁川を攻略した際、期の志義を聞いて賊曹掾に任じた。
王郎討伐と光武帝への随従
- 光武帝が薊に赴いた時、王郎の檄書が薊に達して城中で呼応する動きが起こった。光武帝は急ぎ出立しようとしたが、群衆が道をふさいで進めなかった。期は馬上で戟を奮い大声で先払いを叫び、人々を退かせて城門を出た。
- 信都に至り、期は裨将となって傅寛・呂晏とともに鄧禹に属し、周辺の県を平定した。房子の兵を発すると、鄧禹は期を独任の偏将軍とし兵二千人を授けた(傅寛・呂晏には各数百人)。
- 光武帝は期に真定・宋子を分担させ、樂陽・槀・肥纍を攻め落とした。王郎の将、兒宏・劉奉を鉅鹿城下に攻めた際、期は先陣を切って自ら五十余人を斬り、額に傷を負いながらも幘(頭巾)をかぶり直して戦い続け、大いにこれを破った。
- 王郎が滅んだ後、期は虎牙大将軍を拝命。その機に乗じて光武帝に、河北の地の要害と精鋭を頼みに漢を復興すべしと説いた。光武帝は笑って「卿はなお先払いの真似をしたいのか」と応じた。
- 銅馬の大軍数十万が清陽・博平に侵入した際、期は諸将と迎撃したが苦戦し、背水の陣を敷いて力戦、光武帝の救援も得て大破、館陶まで追撃し降した。
- 青犢・赤眉を射犬で撃った際、賊が期の輜重を襲うと、期は自ら反撃し数十人を殺傷、身に三創を負いながらも力戦してこれを破走させた。
- 光武帝の即位後、安成侯に封じられ食邑五千戸を得た。
魏郡太守としての治績
- 檀郷・五樓の賊が繁陽・内黄に侵入し、魏郡の大姓もしばしば離反した。更始の将、卓京(京は「原」とも作る)が鄴城で反乱を企てたため、帝は期を魏郡太守・行大将軍事とした。
- 期は郡兵を発して卓京を撃破、六百余級を斬った。京は山に逃げたが、その将校数十人を追斬し、京の妻子を捕らえた。さらに繁陽・内黄を攻めて数百級を斬り、郡内は平穏となった。
- 郡内の督盗賊であった李熊の弟・陸が城を挙げて檀郷に呼応しようとした事件では、期は告発があっても直ちに動かず、熊を召して問いただした。熊は罪を認め、老母とともに死を望んだが、期は「役人でいるより賊として楽しみたいなら弟の陸のもとへ行くがよい」と告げて城外へ送り出した。熊は陸を訪ね連れ帰る途中、陸は慙愧のあまり自殺した。期は礼をもって陸を葬り、熊はもとの職に復した。郡中はその威信に服した。
- 建武五年、帝の魏郡行幸に従い太中大夫となり、洛陽に戻って衛尉を拝命。信義を重んじ、味方が降ろうとする時は虜掠せず、朝廷では国事を憂い、意に沿わぬことがあれば必ず諫言した。帝が軽々しく期門の兵だけで近出しようとした際も、期は車前に頓首して諫め、帝は輿を回した。
- 建武十年に没した。帝は自ら弔問し、殮に臨んで衛尉安成侯の印綬を贈り、諡は忠侯とされた。
- 子の丹が跡を継ぎ、丹の弟の統は建平侯に封じられた。丹は後に葛陵侯に改封された。丹が没すると子の舒、舒が没すると子の羽、羽が没すると子の蔡が跡を継いだ。