後漢書卷四十五 李王鄧來列傳第五 王常

挙兵から下江軍への合流

  • 王常、字は顔卿。潁川舞陽の人。王莽末、弟の仇討ちのため江夏に逃亡した。
  • 王鳳・王匡らと雲杜の緑林山中で挙兵し、数万の衆を集めて偏裨となり近隣の県を攻めた。後に成丹・張卬らと共に南郡の藍口に入り、下江兵と号した。
  • 王莽の遣わした厳尤・陳茂に敗れると、王常は成丹・張卬と共に散卒を収めて蔞谿に入り、鍾龍の間で略奪を行い勢力を盛り返した。荊州牧の軍と上唐で戦いこれを大破し、北上して宜秋に至った。
  • ちょうど漢軍(新市・平林の衆)が小長安で敗れ、諸将が撤退を望んでいた頃、劉伯升は下江軍が宜秋にいると聞き、光武帝・李通と共に王常の陣営を訪ね、合従を説いた。成丹・張卬は王常を推して伯升に会わせ、王常は伯升の説くところに大いに悟り、「王莽は簒奪し天下を残虐に扱っており、豪傑が並び起こる中、劉氏の復興こそが真主である」として、伯升と深く結んだ。
  • 王常が戻って成丹・張卬にこれを伝えると、両者は「大丈夫たるもの各々が主となるべきだ」と反発した。しかし王常はひそかに漢に帰する心を固め、諸将帥を説いた。「成帝・哀帝の衰微により王莽が簒位したが、その政令は苛酷で民心を失っている。民の怨むところは天の去るところ、民の思うところは天の与するところであり、大事を挙げるには民心と天意に従わねばならない。秦・項羽のような強大さでさえ滅びたのだから、いま布衣の身で草沢に集う我々が力任せに事を行えば滅亡するのみである。南陽の劉氏一族の挙兵は深謀を備え、彼らと合流すれば大功を成せる」と。下江の諸将はこれに納得し、王常の言に従うこととした。
  • こうして下江軍は漢軍・新市・平林の軍と合流し、士気大いに上がって共に進撃し、甄阜・梁丘賜を破り殺した。宗室を立てる議論では、王常は南陽の士大夫と同意見で伯升を立てることを望んだが、朱鮪・張卬らはこれを聞かなかった。

更始・光武二代の功臣として

  • 更始帝の即位後、王常は廷尉大将軍・知命侯となり、汝南・沛郡を巡撫した。昆陽に入り光武帝と共に王尋・王邑を撃破した。更始帝が長安に都すると、王常は南陽太守の事を行い専断で誅賞を行う権を得、鄧王に封じられ八県を食み、劉氏の姓を賜った。性格は恭倹で法度を守り、南方でその評判が高かった。
  • 更始帝の敗北後、建武二年(26年)夏、王常は妻子を連れて洛陽に至り自ら降った。光武帝は大いに喜び、「王廷尉、ご苦労であった。かつての艱難を忘れたことはない。しかし互いに音信を絶っていたのは、かつての約束に背くものではないか」と労い、やや責める言葉をかけた。王常は「陛下の大命を受けて身を託し、宜秋・昆陽で共に断金の交わりを結びました。しかし更始帝が私を南州に任じ、赤眉の乱で更始帝が敗れると、天下の綱紀は再び失われたと思い、悲観しておりましたが、陛下の即位を聞いて心が開けました」と頓首して謝した。光武帝は笑って「戯れに言ったまでだ」と応じた。
  • 光武帝は群臣の前で王常の功を称え、左曹に任じ山桑侯に封じた。後に大会で王常を指し「下江の諸将を率いて漢室を輔けた、心は金石のごとき忠臣である」と述べ、この日、王常は漢忠将軍に遷った。
  • 南は鄧奉・董訢を撃ち、諸将はみなその指揮下に属した。また河間・漁陽の屯聚を北で撃破し、建武五年(29年)秋には湖陵を攻略、任城で光武帝と会し蘇茂・龎萌を破り下邳に進攻した。城門で一日数度の攻防を繰り広げ、光武帝は自ら城南の高所からその奮戦を望見し、中黄門を遣わして引き上げさせたところ、賊は降伏した。また騎都尉王霸と共に沛郡の賊を平定した。
  • 建武六年(30年)春、洛陽に召還され、夫人が舞陽で王常を出迎えた。帰郷して墓参りをした後、西のかた長安に屯して隗囂に備えた。建武七年(31年)、璽書を持つ使者により横野大将軍を拝命し、席次は諸将に絶して高かった。
  • 隗囂の将高峻を朝那で破り、囂が烏氏を過ぎようとしたところを要撃してこれを破り、諸羌の営塁を平定した。建武九年(33年)には内黄の賊を破り降し、後に故安に屯して盧芳に備えた。建武十二年(36年)、屯所で薨じ、節侯と諡された。子の王広が嗣ぎ、三十年(54年)に石城侯に徙封された。永平十四年(71年)、楚王英の事件に連座して国を除かれた。