後漢書卷四十四 宗室四王三侯列傳第四 順陽懷侯嘉

出自と挙兵

  • 劉嘉、字は孝孫。光武帝の族兄である。父の劉憲は舂陵侯劉敞の同産弟。劉嘉は幼くして孤児となり性は仁厚で、南頓君(劉欽)が実子のように養育した。後に伯升とともに長安で尚書・春秋を学び、義兵が起こると劉嘉は更始に従って征伐に赴いた。漢軍が小長安で敗れると劉嘉の妻子が害された。更始の即位後、偏将軍となり宛を攻め破った功で興徳侯に封じられ、大将軍に遷って冠軍で延岑を撃ち降した。更始が長安に都すると劉嘉は漢中王・扶威大将軍・持節として就国し南鄭に都し、衆数十万を擁した。
  • 建武二年、延岑が再び反して漢中を攻め南鄭を囲むと、劉嘉の兵は敗走し延岑は漢中を平定した。延岑はさらに武都に進んだが更始の柱功侯李宝に破られ天水へ逃げ、公孫述が将の侯丹を遣わして南鄭を取った。劉嘉は散卒を収めて数万を得、李宝を相として武都から南に侯丹を撃ったが利あらず、河池・下弁に軍を還した。再び延岑と連戦し、延岑は北へ散関に入り陳倉に至ったが劉嘉はこれを追撃して破った。更始の鄧王廖湛が赤眉十八万を率いて劉嘉を攻めると、劉嘉は谷口で戦いこれを大破し自ら廖湛を斬った。
  • 劉嘉は雲陽に至り穀を就いたが、李宝らは鄧禹の西征を聞き兵を擁して自守し劉嘉に成敗を静観するよう勧めた。光武帝はこれを聞いて鄧禹に「孝孫(劉嘉)は素より謹んで善良で親愛の情も深い、これは長安の軽薄児が誤らせたに違いない」と告げ、鄧禹が帝の旨を宣べると、劉嘉は来歙を介して雲陽の鄧禹のもとへ詣でた。建武三年、洛陽に至って征伐に従い千乗太守を拝され、六年に病んで骸骨を乞い京師に召還された。十三年、順陽侯に封じられ、秋にはさらに子の劉廧を黄李侯に封じた。十五年に劉嘉が卒すると子の劉参が嗣いだが、罪あって南郷侯に削られた。永平中、劉参は城門校尉となり、卒すると子の劉循が嗣ぎ、劉循が卒すると子の劉章が嗣いだ。

史論

  • 賛にいう。「斉武(劉縯)は沈勇にして雄、義の戈を風に乗せたが、倉卒の中で図りえず、天の工(たくらみ)を我がものとできなかった。城陽(劉祉)は早くから協力し、趙孝(劉良)は晩くして同じくし、泗水(劉歙)ら三侯はあるいは恩により、あるいは功によって封じられた」。