出自と挙兵
- 劉賜、字は子琴。光武帝の族兄である。祖父の劉利は蒼梧太守であった。劉賜は幼くして孤児となり、兄の劉顕が怨みに報いて人を殺し、吏が劉顕を捕えて殺した。劉賜は劉顕の子・劉信とともに田宅を売り財産を投じ客を結んで吏への報復を図り、亡命し逃げ隠れたが、赦に遭って帰った。折しも伯升の挙兵に従い諸県を攻撃し、更始が立つと劉賜を光禄勲・広漢侯とした。
- 伯升が害されると劉賜は代わって大司徒となり汝南討伐に赴いたが平らげぬうちに、更始はさらに劉信を奮威大将軍として代わって汝南を撃たせた。劉賜は更始とともに洛陽に至った。更始が親近の大将に河北を徇わせようとして誰を遣わすべきか迷った際、劉賜は「諸家の子の中でただ文叔(光武帝)のみが用いられる」と言ったが、大司馬朱鮪らは不可とし更始は狐疑した。劉賜が強く勧めたことで光武帝は行大司馬・持節として河を渡ることとなり、この日、劉賜は丞相となり先に関に入って宗廟・宮室を修め更始を長安に迎え都させることとなった。劉賜は宛王に封じられ前大司馬・持節として関東を鎮撫した。
- 更始二年春、劉賜は宛に就国し六部の兵を典将したが(伯升が初めに置いた六部の兵)、後に赤眉が更始を破ると劉賜の領する六部も次第に離散し、宛を去って育陽を保った。光武帝の即位を聞くと西の武関に赴いて更始の妻子を迎え洛陽へ将いた。帝は劉賜の忠を嘉し建武二年に慎侯に封じ、十三年にさらに戸邑を増して安城侯に改定し朝請を奉じさせた。劉賜の恩信により帝は特に親厚に扱い、しばしば私宴に招き邸に行幸するほどであったが、劉賜は恩賜をつねに旧故に賑与し蓄えを残さなかった。帝は劉賜のために冢堂・祠廟を営み、舂陵孝侯(劉敞)の例にならって吏卒を置いた。
- 二十八年に卒し子の劉閔が嗣ぎ、三十年に帝は劉閔の弟の劉嵩を白牛侯に封じたが、楚王英の謀反事件に連座して国を除かれた。劉閔が卒すると子の劉商が嗣ぎ白牛侯に徙封されたが、劉商が卒すると子の劉昌が嗣いだ。
- 初め劉信は更始のために汝南を平定した功で汝陰王に封じられ、兵を率いて江南を平定し豫章に拠ったが、光武帝の即位後、桂陽太守張隆に撃破され、劉信は洛陽に詣でて降り汝陰侯となった。永平十三年、これもまた楚王英の事件に坐して国を除かれた。