後漢書卷四十三 隗囂公孫述列傳第三 公孫述

公孫述、字は子陽。扶風茂陵の人(?–36年)。王莽末に導江卒正として蜀に拠り、更始二年(24年)に自立して蜀王となり、建武元年(25年)に皇帝を称して国号を成家とした。蜀の険阻と富を恃んで十年余り割拠し光武帝と対峙したが、光武帝の遠征により建武十二年(36年)に敗死し、成家は滅んだ。

年表(9件)

蜀への割拠まで

  • 公孫述、字は子陽。扶風茂陵の人。哀帝の時、父の任により郎となり、後に父の公孫仁が河南都尉となると、公孫述は清水長に任じられた。父は年少を案じ門下掾を随わせたが、月余りで掾は「述は教えを待つ者ではない」と辞して帰った。後に太守は公孫述の能力を認め五県を兼摂させ、姦盗が発せず郡中は「鬼神あり」と噂した。王莽天鳳中、導江卒正として臨卭に居した。
  • 更始が立つと各地の豪傑が挙兵し、南陽の宗成は虎牙将軍を自称して漢中を略し、商人の王岑も雒県で挙兵し定漢将軍を称して王莽の庸部牧を殺した。衆は数万に及び、公孫述は使者を遣わし宗成らを迎えたが、成都に至った成らが虐掠横暴を働くのを見て、公孫述は県中の豪傑を召し「天下は新室に苦しみ劉氏を思うこと久しい、故に漢将軍が来ると聞いて道に迎えたのに、今や無辜の百姓が捕らわれ室屋が焼かれている、これは寇賊であって義兵ではない、私は郡を保って自守し真主を待つ」と述べ、豪傑はみな死力を尽くすことを誓った。公孫述は漢の使者を詐称して自らに輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を仮し、精兵千余人で宗成らを攻め大破し、宗成の将垣副が成を殺してその衆を率い降った。
  • 更始二年秋、更始は柱功侯李宝・益州刺史張忠に兵万余人を率いさせ蜀を徇わせたが、公孫述は地の険と衆の帰服を恃み自立の志を抱き、弟の公孫恢に綿竹で李宝・張忠を大破させ、これにより威は益州部に震い、功曹李熊が「将軍は千里の地を割拠し湯武の土を凌ぐ、天の隙に乗じて威徳を奮えば覇王の業も成る、名号を改め百姓を鎮めるべき」と説き、公孫述は自ら蜀王を立て成都に都した。蜀地は肥饒で兵力精強、遠方の士庶が帰し、卭・笮の君長も貢献した。

皇帝僭称と経営

  • 李熊は再び「山東は飢饉で人が相食み城邑は丘墟となっているが、蜀は沃野千里で果実女工の富があり、名材竹箭・魚塩銅銀の利、漕運の便もあり、北は漢中の杜褒斜の険、東は巴郡の扞関の口を守れば地方数千里・戦士百万を擁せる、有利な時は出兵し不利な時は堅守して農に励めば、東は漢水を下って秦地を窺い南は江流に順って荊揚を震わせられる、まさに天と地を用いて功を成す資である、今や王の声望が天下に聞こえながら名号が定まらず志士は狐疑している、即位すべきだ」と説いた。公孫述は「帝王の命があってこそ」と応じたが、李熊は「天命に常なし、百姓は能ある者に与する」と答えた。公孫述は夢に「八厶子系十二を期とす」との言を聞き、妻に「貴くとも祚は短いか」と語ると妻は「朝に道を聞けば夕べに死すとも可、まして十二年をや」と答えた。折しも府殿に龍が現れ夜に光耀があったので、これを瑞祥とし手のひらに「公孫帝」の文を刻ませた。建武元年四月、自ら天子に即位し国号を成家、色は白を尚び、建元して龍興元年とした。李熊を大司徒、弟の公孫光を大司馬、公孫恢を大司空とし、益州を司隷校尉、蜀郡を成都尹と改めた。越巂の任貴も王莽の大尹を殺し郡を挙げて降った。公孫述はさらに将軍侯丹に白水関を開かせ南鄭を守らせ、将軍任満に閬中から江州へ下り扞関を東に拠らせ、益州の地をことごとく有した。
  • 更始が敗れた後、光武帝は山東を専らとし西伐する暇がなく、関中の豪傑呂鮪らは多く公孫述に帰し将軍に拝された。公孫述は大いに営塁を築き車騎を陳ね戦射を演練し、兵甲数十万を集め漢中に糧を積み、南鄭に宮を築き十層の赤楼帛蘭船を造り、天下の牧守の印章を多数刻して公卿百官を備えた。李育・程烏に数万衆を率いさせ陳倉に出て呂鮪と三輔を徇わせたが、建武三年、征西将軍馮異が陳倉で呂鮪・李育を大破し、二人は漢中へ奔った。
  • 建武五年、延岑・田戎が漢兵に敗れて蜀へ亡命した。延岑、字は叔牙、南陽の人。初め漢中に拠り関西で兵を擁したが破散し南陽で数県を略した。田戎は汝南の人、夷陵で挙兵し衆数万を有し、延岑・田戎はともに秦豊と結び娘を娶ったが、秦豊が敗れると二人は公孫述に降った。公孫述は延岑を大司馬・汝寧王、田戎を翼江王とした。建武六年、公孫述は田戎と任満に江関を出させ臨沮・夷陵の間に至らせ旧衆を招き荊州を狙ったが果たせなかった。
  • この時、公孫述は銅銭を廃し鉄官銭を置いたため貨幣が通用せず、蜀中で「黄牛白腹、五銖当復(黄牛白腹、五銖まさに復すべし)」との童謡が流行した。王莽が黄を称し公孫述が白を号したことに対し、五銖銭は漢の貨幣ゆえ天下は劉氏に帰すとの意であった。公孫述もまた符命・鬼神瑞応を好み、讖記を妄りに引いて「孔子は春秋を作り赤制のため十二公で断った、漢は平帝で十二代、歴数尽きた、一姓は再受命を得ない」と説き、『録運法』『括地象』『援神契』などの讖書を引いて自らの正統を主張し、掌の文をもって瑞とし、しばしば書を中国に送って衆心を動かそうとした。帝はこれを患い書を送り「図讖にいう公孫とは宣帝のことだ、漢に代わる者は当塗高というが、それがお前だと言うのか」と反駁し、王莽の偽瑞を例に「宜しく三思を留めよ」と諭したが、公孫述は答えなかった。
  • 翌年、隗囂が公孫述に称臣すると、公孫述の騎都尉・平陵の人荊邯が東方の平定間近と見て「兵は帝王の大器、古来廃せぬもの、漢祖は錐を立てる地もなく行陣の中から興り、幾度も敗れながら復戦し功を成した、前に死しても却いて滅亡に就くよりましだ」と説き、隗囂が更始の乱に乗じて割拠しながら好機を逃し西伯(文王)を気取り漢に事えたために滅んだ例を挙げ、「今なら漢帝の憂いを外らし東伐に専念させ、天下を五分すれば四を得られる、天水を挙げれば九分の八を得る、陛下は梁州の地一つで内外を支えねば王氏(王莽)自潰の変を招く、天下の望が絶えぬうちに国内の精兵を発し、田戎に江陵を、延岑に漢中三輔を取らせれば海内が震動し大利を得る」と献策した。公孫述は群臣に諮り、博士呉柱は「武王は孟津で観兵し八百諸侯が集っても師を還して天命を待った、まして左右の助けもなく千里の外に出兵して封彊を広げようとするなど聞いたことがない」と反対したが、荊邯は「東帝(光武帝)は尺土の柄もなく烏合の衆を率いて向かうところ平らげた、今この機に功を分かたねば隗囂のように西伯を気取るだけに終わる」と説いた。
  • 公孫述は荊邯の言を是とし北軍屯士・山東客兵を悉く発して延岑・田戎に二道から出させ漢中の諸将と合流させようとしたが、蜀人と弟の公孫光は「国を空にして千里の外で一挙に成敗を決すべきでない」と固く争ったため、公孫述は止め、延岑・田戎も度々出兵を請うたが疑って聴かなかった。公孫述は性苛細で小事を察し敢えて誅殺する一方で大体を見ず、郡県官名を好んで改易した。若くして郎となり漢家の制度に習い、出入りに法駕・鑾旗旄騎を用い、陛戟を陳ねて後に輦で房闥を出るなど帝の儀礼を模し、二子を王に立て犍為・広漢の数県を食ませたので、成否も定まらぬうちに皇子を王とするのは無用と諫める群臣も多かったが聴かず、公孫氏のみが任用されたことで大臣はみな怨んだ。

滅亡

  • 建武八年、帝が隗囂を攻めた際、公孫述は李育に万余人を率いさせ救援したが、隗囂が敗れると軍もろとも没した。蜀地はこれを聞いて動揺し、公孫述は成都郭外の秦代の旧倉を白帝倉と改名し(自ら白を尚んだため)、王莽以来空だったこの倉から穀が山のように出たと詐って人に言わせ、百姓が市里を空にして見に行った。公孫述は群臣を大会して「白帝倉は本当に穀を出したか」と問い、みな「否」と答えると、「訛言は信じられぬ、隗王の破れたのもこの類だろう」と述べたが、まもなく隗囂の将王元が降った。
  • 翌年、公孫述は王元と領軍環安に河池を拒がせ、田戎・大司徒任満・南郡太守程汎に江関を下らせ、破虜将軍馮駿らを破って巫・夷陵・夷道を抜き荊門に拠った。建武十一年、征南大将軍岑彭がこれを攻め任満らを大破し、公孫述の将王政が任満の首を斬って岑彭に降り、田戎は江州を保った。城邑は皆開門して降り、岑彭は武陽まで長駆した。帝は公孫述に禍福を説く書を送ったが、公孫述は読んで嘆息するも、太常常少・光禄勲張隆らの降を勧める声にも「廃興は命であり、どうして天子に降れようか」と拒んだ。
  • 中郎将来歙が王元・環安を急攻すると、環安は刺客に来歙を殺させ、公孫述はさらに刺客に岑彭を殺させた。建武十二年、公孫述の弟の公孫恢と子婿の史興は大司馬呉漢・輔威将軍臧宮に破られ戦死し、以後将帥は恐懼して日夜離叛し、公孫述はその家族を誅しても止められなかった。帝はなお降を望み、来歙・岑彭を害された恨みで疑うなと諭し「今すぐ自ら出頭すれば家族は完全に保たれる、迷って肉を虎口に委ねるようなことをするな」と詔したが、公孫述は終に降る意がなかった。九月、呉漢が大司徒謝豊・執金吾袁吉を破り斬り、漢兵は成都を包囲した。
  • 公孫述は延岑に「どうすべきか」と問い、延岑は「男児は死中に生を求めるもの、財物は容易く集まる、惜しむべきではない」と答え、公孫述は金帛を悉く散じて敢死の士五千余人を募り延岑に配して市橋で偽の旗幟を掲げ鼓を鳴らして挑戦させ、密かに奇兵を呉漢の軍の背後に出して襲わせこれを破った。呉漢は水に落ちて馬の尾に縋って出た。十一月、臧宮の軍が咸門に至ると、公孫述は占書に「虜、城下に死す」とあるのを見て大いに喜び、みずから数万を率いて呉漢らを攻め、延岑に臧宮を拒がせて激戦し、朝から日中まで戦い両軍とも疲弊した。呉漢が壮士に突撃させると公孫述の兵は大乱し、公孫述は胸を刺され馬から落ち、左右に輿で城へ運ばれ、その夜死んだ。翌朝、延岑が降り、呉漢は公孫述の妻子を悉く滅ぼし公孫氏を族滅した。延岑はさらに兵を放って大掠し公孫述の宮室を焼いた。
  • 帝はこれを聞いて怒り、呉漢を譴責し、その副将劉尚にも「城が降って三日、吏人・老幼が数万にのぼる中、兵を放ち火を縦にしたのは酸鼻の至り、宗室の子孫として吏職を経た者がなぜこれを忍びえたのか」と孟孫の放麑・楽羊の啜羹の故事を引いて咎めた。初め常少・張隆は公孫述に降を勧めて容れられず憂いのうちに死んだが、帝は詔してこれを追贈し礼をもって改葬させた。忠節志義の士――李業・譙玄らは旌顕され、程烏・李育はその才幹によりみな登用された。これにより西土はみな悦び帰心した。

史論

  • 論にいう。「昔、趙佗は自ら番禺に王として立ったが、公孫述もまた蜀漢で帝を僭称した。他に功能なくして後に亡んだのは、地が辺境で遠く王化の及ぶところでなかったからであろう。公孫述は漢の吏でありながら資るところなく、ただ文俗に自ら嘉し志計を集めえたが、道は足らず意ばかりが余り、隙に乗じて功を立て時変に会することができず、ひたすら辺幅を飾って高深に自ら安んじた。かつて呉起が魏侯に恥じ入らせた言――『徳にあるのであって険にあるのではない』――に通じるものがある。臣属を謝し廃興の命を審らかにしたことは、泥首銜璧して降った者たちとは日を異にする」。
  • 賛にいう。「公孫述は吏の道を習い、隗王(隗囂)は士を得た。漢の命はすでに戻っていたが、二隅(隴・蜀)はなお相並び立とうとした。天数には違うところがあり、江山はなお恃みがたいものである」。