- 梁の劉昭補注。京都の外の十二州の刺史、州郡中郎将(匈奴・烏桓・羌の護校尉)、県郷亭里の吏、王国・列侯・四夷国王、及び百官の俸給を記す。
州・刺史
- 州は十二、各州に刺史一人(六百石)。秦の監御史を漢初は省き丞相史を分けて諸州を巡らせたが常官ではなかった。武帝が初めて刺史十三人(秩六百石)を置き、成帝が牧(秩二千石)と改称。建武十八年に刺史十二人に復し各州一州を主らせ、一州は司隷校尉に属した。
- 刺史の職務は六条問事に基づく――①強宗豪右の田宅制限違反、②二千石が詔書を奉じず私利に走り百姓を侵漁すること、③二千石が疑獄を憐れまず刑賞を恣にすること、④二千石の選署の不公平、⑤二千石の子弟が権勢を恃み請託すること、⑥二千石が公を曲げ豪強に阿附し賄賂を通ずること。刺史は初任時、他の官のように拝礼せず揖礼のみで済んだ。
- 献帝建安十八年、州を省いて郡を併せ禹貢の九州に復した詳細な郡の再編(冀州三十二郡・豫州八郡・徐州八郡・青州五郡など)を注に記す。
- 諸州は八月に管内の郡国を巡行し、囚徒を検録し、殿最(治績の評価)を考課した(善績の者を「最」、不称職の者を「殿」とする)。年末には京都に赴き奏事したが、中興後は計吏に託すのみとなり、和帝の初め張酺の上言(刺史の奏事を旧に復すべきとの意見)を注に引く。
- 従事史・仮佐を置き、職掌は司隷とほぼ同じだが都官従事はなく、功曹従事を治中従事と呼ぶ。
- 州の管轄郡国数:豫州六・冀州九・兖州八・徐州五・青州六・荆州七・揚州六・益州十二・涼州十二・并州九・幽州十一・交州七、合計九十八(うち王国相二十七・郡太守七十一)。属国都尉は郡から遠い県を分けて置かれ、郡より小さい。世祖が郡県四百余所を併省し、後に漸次増やされた。
- 劉昭注の長い史論――九服・封建の変遷、秦の郡県制の失敗と漢の分封の得失、武帝の刺史設置から成帝の牧への改称、光武帝の州牧抑制策、霊帝末の劉焉の州牧強化論とその弊害(劉焉の益州割拠、袁紹の冀州支配、劉表の荆州、曹操の兗州が漢を滅ぼす端緒となったとする)、西晋武帝が州の兵権を罷めようとしたが徹底できず牧鎮の権が強大化し天下分裂に至った経緯を、比喩(骨肉の均衡、末大不掉)を用いて論じたもの。要旨は「州牧・刺史に過大な軍権を与えることが乱の根本原因である」という劉昭の史観。
郡・県
- 京都には尹一人(二千石)、丞一人。郡ごとに太守一人(二千石)、丞一人(辺境の郡は丞の代わりに長史)。王国の相も同様。属国には都尉一人(比二千石)、丞一人。
- 郡国はいずれも民治・賢者の推挙・訴訟の裁定・姦の検察を掌り、春に管内県を巡行し農桑を勧め窮民を救済し、秋冬に無害吏を派遣して囚人を訊問し罪法を平定、殿最を考課する。年末に吏を京都へ上計に遣わし、あわせて孝廉を推挙する(郡の人口二十万ごとに一人)。
- 武帝が都尉を置き三輔都尉・農都尉(屯田)・属国都尉(帰順した蛮夷を主る)を増設したが、中興建武六年に諸郡都尉を省き太守に職を併せ、都試(軍事訓練演習)も廃した。辺郡には都尉・属国都尉が残され、県を分け民を治めた。安帝の代、羌の侵犯により右扶風都尉・京兆虎牙都尉を復置した(応劭注に軍備の必要性を説く長文――張角の乱で辺境の異民族の兵を頼らざるを得なかった弊害を嘆く一節を含む)。
- 郡の属官は公府の曹にほぼ倣うが東西曹はなく、功曹史(選署・功労を主る)、五官掾(功曹及び諸曹の事を代行)、五部督郵曹掾一人(属県の監督)、門の亭長、主記室史(記録・催促)、閣下・諸曹の書佐幹がある。
- 県邑道は大なるもの令一人(千石)、次は長(四百石)、小なるものは長(三百石)。侯国の相も同格。令長は民を治め善を顕し義を勧め姦を禁じ悪を罰し訴訟を裁く。秋冬に年間の集簿(戸口・墾田・銭穀の出入・盗賊の多少)を郡に上計する。
- 蛮夷を主る県は「道」、公主の食邑は「国」と呼ぶ。県の戸数一万以上は令、未満は長、侯国は相(いずれも秦制)。丞各一人、尉(大県二人、小県一人)。丞は文書・倉獄を、尉は盗賊を主る。
- 諸曹掾史は郡に準じ、五官が廷掾となり郷を監督、五部が春夏は勧農掾、秋冬は制度掾となる。
郷・亭・里
- 郷に有秩・三老・游徼を置く(有秩は郡が署し秩百石、戸数五千以上の郷に置く。小郷は県が嗇夫一人を置く)。民の善悪の役賦を掌り、三老は教化(孝子・順孫・貞女・義婦を表彰)を、游徼は巡邏・禁姦を掌る。郷佐は民の賦税徴収を助ける。
- 亭に亭長を置き盗賊を禁ずる。亭長は都尉の指揮のもとで捕盗を掌る(応劭注に、民は二十三歳で正卒となり、一年衛士、一年材官・騎士として訓練を受け、八月に太守都尉らが都試を行った旧制の詳細、十里に一亭・五里に一郵の配置を記す)。
- 里に里魁を置き(百家を掌る)、什伍(民十戸・五戸ごとの相互監察組織)により善悪を監官に報告させる。
- 辺県には障塞尉を置き羌夷の侵犯を防いだ(『太公陰符』を引く長い注――吏の十大罪・民の十大過を論じ、吏民相和すことの重要性を説く寓話)。
- 郡に塩官・鉄官・工官・水官を、産物の多寡に応じて置いた(塩官は製塩税を、鉄官は鋳造を、工官は工税を、水官は漁税を主る)。
護匈奴中郎将等
- 使匈奴中郎将一人(比二千石、南単于を保護する。従事二人、必要に応じ掾を増員)。護烏桓校尉・護羌校尉も同様に置かれた(応劭注:単于は毎年侍子を朝貢させ、謁者が送迎し弓馬・氈罽等の贈物を扱った)。
- 護烏桓校尉一人(比二千石、烏桓の胡を主る。長史一人・司馬二人〔各六百石〕、鮮卑の来賓・人質・胡市も併せて管掌)。
- 護羌校尉一人(比二千石、西羌を主る。長史・司馬二人〔各六百石〕)。
王国
- 皇子が王に封ぜられた郡は国となり、傅一人・相一人(各二千石)を置く。傅は師のように王を善導し、相は太守に准じ長史(郡丞に相当)を置く。
- 漢初の諸王国は項羽の分封制を踏襲し広大で、官職も太傅・丞相・御史大夫・諸卿を備え朝廷同様であったが、国家が丞相のみを任命し他は王が自ら置いた。景帝の代、呉楚七国の乱を機に諸王の治民権を奪い、内史に民を治めさせ丞相を相と改称、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士官を省いた。武帝は内史・中尉・郎中令の名を改めた(内史→京兆尹、中尉→執金吾、郎中令→光禄勲、王国官のみ旧称のまま存置)。成帝の代、内史を省き相に治民させた。
- 劉昭の長い史論――漢の封建策の得失(高祖の子弟分封、景帝の抑制、賈誼の「衆建して力を少なくする」策の妥当性、光武帝以降の皇子分封の縮小、魏晋の宗室軽視策の弊害)を、王朝の興亡と結びつけて論じる。要旨は「宗室を適度に強く保つことが王朝存続の要である」という主張。
王国官制詳細
- 中尉一人(比二千石、郡都尉に准じ盗賊を主る)。郎中令一人・僕一人(各千石、郎中令は光禄勲に、僕は太僕に准じる)。治書(比六百石)。大夫(比六百石、定員なし、王の使者として京都に璧を奉り正月を賀す)。謁者(比四百石)。長冠長(本員十六人、後に減員)。礼楽長(楽人を主る)・衛士長(衛士を主る)・医工長(医薬を主る)・永巷長(宦者、宮中の婢使を主る)・祠祀長(祠祀を主る)(いずれも比四百石)。郎中(二百石、定員なし)。
衞公・宋公
- 建武二年、周の後裔姫常を周承休公に封じ、五年に殷の後裔孔安を殷紹嘉公に、十三年に常を衛公、安を宋公と改称し、漢の賓客として三公の上に位置づけた(二王の後を通三統の礼で厚遇する古礼にもとづく)。
列侯
- 食邑の県を侯国とする。秦の爵二十等「徹侯」(金印紫綬)を承け、武帝の諱を避けて列侯と改称。功大なる者は県を、小なる者は郷・亭を食む。武帝元朔二年、諸王の推恩により衆子に土地を分封する制度を定め、これも列侯とした。
- 旧列侯で長安に住み朝請する者は三公に次ぐ位。中興後は功徳により特進(車騎将軍に次ぐ)、朝廷侯(五校尉に次ぐ)、侍祠侯(大夫に次ぐ)等の位を賜った。その他、皇族の傍系や公主の子孫で墳墓を京都に奉る者も博士・議郎の下に位置した。
- 諸王の封には茅土を受け社稷を立てる礼があったが、列侯の帰国者は茅土を受けず宮室を立てず貧富に応じた(胡広注)。
- 列侯の国ごとに相一人(本県と同秩、民を治めるが臣とせず、租を侯に納める)、家臣として家丞・庶子各一人(侯に侍し家事を治める。もと行人・洗馬・門大夫を含む五官があったが、中興後は食邑千戸以上に家丞・庶子を置き、千戸未満は家丞を置かず、行人・洗馬・門大夫はすべて省かれた)。
関内侯
- 秦の爵十九等「関内侯」を承け、土地を持たず所在県に寄食し、租税の多寡は戸数に応じ定めた。爵制の由来(劉劭『爵制』を引用、公士から列侯までの二十等の由来、車戦の陣立てに基づく古の爵の意味)を長く注記。成帝鴻嘉二年、吏民が銭で爵級を買えるようにした制度も記す。
四夷国王
- 帰義した四夷の国王・率衆王・侯・邑君・邑長には、いずれも郡県に准じた丞が置かれた。
百官の俸給
- 建武二十六年四月、吏の俸給を増した基準を記す。大将軍・三公は月三百五十斛。中二千石百八十斛。二千石百二十斛。比二千石百斛。千石八十斛。六百石七十斛。比六百石五十斛。四百石四十五斛。比四百石四十斛。三百石四十斛。比三百石三十七斛。二百石三十斛。比二百石二十七斛。百石十六斛。斗食十一斛。佐史八斛。俸給は銭と穀を半々で受けた(荀綽『晋百官表』注に和帝延平年間の実額――中二千石は銭九千・米七十二斛等――を引く。献帝が長安にあった際、三輔の狭さから公卿以下の奏除を制限し公田の秩石を賦与とした詔も注記)。
史論
- 賛に曰く、帝道は静やかに深く、統率者は徳を修めて寡をもって衆を御す。職を分けてこそよく統べられ、監察を欠かさず驕りを持たなければ、師徒(軍民)を正しく導き、民を安んじ国を康らかにできる。