- 梁の劉昭補注。九卿のうち宗正・大司農・少府を記す。少府配下には侍中・尚書・御史台など宮中枢要の官も含まれる。
宗正
- 卿一人(中二千石)。王国の嫡庶の序列及び宗室親属の遠近を記録する。郡国は毎年計上時に宗室名籍を上げ、宗室に髡刑以上の犯罪があれば先に宗正へ上申し、宗正が上奏して裁可を得る(毎年一度、諸王世譜の秩第を差し序する。員吏四十一人)。丞一人(比千石)。
- 諸公主の家ごとに家令一人(六百石)・丞一人(三百石)を置く。その他の属吏は増減常なし(主簿・僕・私府長・家丞・直吏・従官等。主が薨じて子がなければ傅一人を置き家を守らせる)。
- 中興後、都司空令丞(罪人を主る)が省かれた。
大司農
- 卿一人(中二千石)。銭穀・金帛・貨幣を掌り、郡国は四季ごとに月旦の銭穀簿を上げ、未納分は別に記す。辺郡の諸官が調度を請えば過不足を調整して支給する(員吏百六十四人)。丞一人(比千石)。部丞一人(六百石、帑蔵を主る)。
- 太倉令一人(六百石、郡国からの漕運穀物の受領を主る。員吏九十九人)。丞一人。
- 平準令一人(六百石、物価を掌り練染・彩色を主る。員吏百九十人)。丞一人。
- 導官令一人(六百石、御米の精白と乾糒の製造を主る。員吏百十二人)。丞一人。
- 郡国の塩官・鉄官はもと大司農に属したが、中興後は郡県に属した(曹操が典農中郎将〔秩二千石〕・典農都尉〔秩六百石または四百石〕・典農校尉〔秩比二千石〕を置いた例を注に引く)。また廩犠令(六百石、祭祀の犠牲・雁鶩を掌る。丞一人・員吏四十人)と雒陽市長(秩四百石、丞一人・二百石。檝櫂丞〔三百石〕が中水官として水渠を主る)、滎陽の敖倉官は中興後みな河南尹に属した。その他の均輸等の官はみな省かれた(均輸・平準の制度趣旨を『塩鉄論』の大夫・文学の議論を引いて解説――均輸は物資輸送の労逸を均す制度、平準は物価を均す制度で、本来は利を貪るための制度ではなかったという議論)。
少府
- 卿一人(中二千石)。宮中の服御の諸物・衣服・宝貨・珍膳を掌る(員吏三十四人。少府の名は「小」の意で、王の私用に供する山沢陂池の税を扱ったことに由来する)。丞一人(比千石)。
- 太医令一人(六百石、諸医を掌る。員医二百九十三人、員吏十九人)。薬丞・方丞各一人(薬丞は薬を、方丞は薬方を主る)。
- 太官令一人(六百石、御膳を掌る。員吏六十九人・衛士三十八人)。左丞(飲食を主る)・甘丞(膳具を主る)・湯官丞(酒を主る)・果丞(果物を主る)各一人。
- 守宮令一人(六百石、御用の紙筆墨・尚書の財用・封泥を主る。員吏六十九人)。丞一人。
- 上林苑令一人(六百石、苑中の禽獣及び苑内に住む民を主る。捕獲した獣は太官に送る。員吏五十八人。桓帝の代に鴻徳苑令も置かれた)。丞・尉各一人。
- 侍中(比二千石、定員なし。左右に侍り万事を賛導し顧問応対する。法駕出行時は一人が参乗し他は騎馬で従う。もと僕射一人があったが中興後は祭酒と改称し、置くか否かは定まらなかった)。武帝の代、侍中莽何羅が刃を隠し謀反した事件以後、侍中は禁中の外に出て事があれば入るようになったが、王莽の代に再び禁中に入り、章帝元和年間の侍中郭挙の後宮密通事件(郭挙は佩刀で章帝を驚かせ誅殺された)を機に再び禁外に出された経緯を注に記す。
- 中常侍(千石、宦者が務め定員なし。後に秩比二千石に増した。左右に侍り内宮の事を賛導し顧問応対する)。
- 黄門侍郎(六百石、定員なし。左右に侍り中外の取次を掌り、諸王朝見の際に殿中で王を座に導く)。青瑣門での「夕郎」の呼称の由来、献帝即位当初の侍中・給事黄門侍郎の制度変遷(黄門を誅した後、侍中・侍郎の禁中出入りが機密漏洩を招いたため王允が尚書に准じ出入りを制限した経緯)を注に記す。
- 小黄門(六百石、宦者、定員なし。左右に侍り尚書の事を内宮に取り次ぎ、中宮以下の万事に関わる。公主・王太妃らの病には見舞いに遣わされる)。
- 黄門令一人(六百石、宦者。宮中の諸宦者を主る。員吏十八人)。丞・従丞各一人(従丞は出入の従を主る)。
- 黄門署長・画室署長・玉堂署長各一人、丙署長七人(いずれも四百石黄綬。宦者が中宮の各所を分担する)。
- 中黄門冗従僕射一人(六百石、宦者。中黄門冗従を主り、宿衛と出行時の車の護衛を掌る)。中黄門(比百石、宦者、定員なし。後に比三百石に増した。禁中の雑事に給仕する)。
- 掖庭令一人(六百石、宦者。後宮の貴人・采女の事を掌る。吏従官百六十七人・待詔五人・員吏十人)。左右丞・暴室丞各一人(暴室丞は病を得た婦人の治療所を主り、皇后・貴人に罪があればここに収容する)。
- 永巷令一人(六百石、宦者。宮婢の使役を典る。員吏六人・吏従官三十四人)。丞一人(宦者)。
- 御府令一人(六百石、宦者。官婢が作る中衣の裁縫・修繕を典る。員吏七人・吏従官三十人)。丞・織室丞各一人(宦者)。
- 祠祀令一人(六百石、宦者。宮中の小祠祀を典る)。丞一人(宦者)。
- 鉤盾令一人(六百石、宦者。近池・苑囿・遊観の場を典る。吏従官四十人・員吏四十八人)。丞・永安丞各一人(三百石、宦者。永安は北宮東北の別宮)。園中丞・果丞・鴻池丞・南園丞各一人(二百石。園中丞は苑中の離宮を、果丞は果園を主る。鴻池は雒陽東二十里の池名、南園は雒水南にある。桓帝の代に顕陽苑丞も置かれた)。濯龍監(秩六百石)・直里監各一人(四百石。濯龍・直里はいずれも苑名)。
- 中蔵府令一人(六百石、宦者。中の幣帛・金銀・貨物を掌る。員吏十三人・吏従官六人)。丞一人。
- 内者令一人(六百石、宦者。中の布張・諸衣物を掌る。員吏十九人)。左右丞各一人。
- 尚方令一人(六百石、宦者。御用の刀剣・好器物の製作を掌る。員吏十二人・吏従官六人)。丞一人。
尚書台
- 尚書令一人(千石。秦の制を承ける。武帝は宦者を用い中書謁者令と改称したが、成帝が士人に戻し尚書令の称を復した。選署及び尚書曹の文書・衆事の裁可を掌る。旧三公経験者が任じられた場合は朝会で陛に上らず奏事し、秩を二千石に増し銅印墨綬を自ら佩びた)。
- 尚書僕射一人(六百石。尚書事を分掌し、令が不在のときは衆事を代奏する。三公・列卿・将軍・大夫・五営校尉らは行幸の道中で尚書僕射・左右丞・郎・御史中丞・侍御史に会うと車を避け、衛士は台官の通行を妨げてはならなかった。献帝が左右僕射に分けた例〔建安四年、栄邵が尚書左僕射〕を注に記す)。
- 尚書六人(六百石。成帝の初め尚書四人を置き四曹に分けたのに始まる)――三公曹(断獄を主り、後に選挙・斎祀も兼ねる。霊帝末に梁鵠が選部尚書となった例)、常侍曹(公卿事を主り、世祖が吏曹と改称)、二千石曹(郡国二千石事を主り、刺史も管轄。中郎官・水火盗賊・辞訟罪眚も掌る)、民曹(吏の上書事を主り、繕治・功作・池苑囿・盗賊も掌る)、客曹(外国夷狄事を主る)の五曹に始まり、世祖が二千石曹を分けさらに客曹を南主客曹・北主客曹に分けて計六曹とした。
- 左右丞各一人(四百石。文書の記録・期会を掌る。左丞は吏民の章報・騶伯史を、右丞は仮署の印綬・紙筆墨・諸財用の庫蔵を主る。宮中の漏刻・衛士交代の合図〔甲夜・乙夜から五更まで〕の逸話、「鶏鳴の歌」の由来〔後漢の固始・鮦陽・公安・細陽四県出身の衛士が闕下でこの曲を歌った故事〕を注に記す)。
- 侍郎三十六人(四百石。一曹六人、文書起草を主る。三署から台に入り、初年は守尚書郎中、満一年で尚書郎、三年で侍郎と称した。客曹郎は羌胡事を治め功が著しければ二千石や刺史に昇進する。県令に遷る際は治装料として銭三万を賜り三台の餞別を受けた等の慣例を注に記す。孝廉出身の丁邯が令史への補任を恥じて拒み、世祖の怒りを買いつつも節を曲げなかった逸話を長く引く――丁邯字叔春、京兆陽陵の人、後に汾陰令・漢中太守を歴任、妻の弟が公孫述の将となった件で妻が投獄された際も節を曲げず罪に服し、官にあって没した)。
- 令史十八人(二百石。一曹三人が文書を主り、後に劇曹に三人を増し計二十一人となる。和帝永元三年に令史を増員し功満で違法のない者を県令に補任した制度、光武帝が孝廉の丁邯を令史に補そうとした逸話等を注に記す)。
- 符節令一人(六百石。符節台の長として符節の事を主り、使者派遣時に節・尚符璽を授ける)。尚符璽郎中四人(もと二人が中にあり璽・虎符・竹符の半分を主った。虎節・竹使符の制度を『周礼』注に照らして解説)。符節令史(二百石、文書を掌る。中平六年に節上の赤葆〔飾り〕を復した故事を注記)。
御史台
- 御史中丞一人(千石。御史大夫の丞。もと殿中で御史を別監し非法を密かに糾した。御史大夫が司空に転じてからは別に留まり御史台の長となった。後に少府に属した)。
- 治書侍御史二人(六百石。法律に明るい者を選任し、天下の疑獄の是非を法律により裁定する。宣帝が路温舒の言に感じ秋審の際に侍御史二人に治書させたのに始まる制度と伝える)。
- 侍御史十五人(六百石。非法を糾察し、公卿・郡吏の奏事の過失を弾劾する。郊廟の祭祀・大朝会・大封拝では二人が威儀を監督し過失を弾劾する。功績著しい者は刺史・二千石に昇進する)。
- 蘭台令史(六百石。奏及び印の文書を掌る)。
- 少府に属する官のうち、太医・上林など四官及び侍中から御史までは文属(名目上の所属)とされた。もと山沢陂池の税(禁銭)は秦以来少府に属したが、世祖が大司農に改属し、考工は太僕に転属、都水は郡国に属した。武帝の初めに水衡都尉(秩比二千石、上林苑の離宮を主る)を置いたが世祖が省き少府に併合、立秋の貙劉(軍事演習)の日にのみ一時的に水衡都尉を置いた。少府の属官のうち丞六人のうち五人が省かれ、湯官・織室令に丞を置くよう改められ、上林十池監・胞人長丞・宦者の昆台(もと甘泉居室、武帝が改称)・佽飛(もと左弋、武帝が改称)の三令二十一丞、及び水衡の属官二十余人も省かれた。章和年間以後、嘗薬・太官御者・鉤盾・尚方・考工の別作監(各六百石)が宦者の兼副となり、あるいは省かれ本官のみが記録された。