- 梁の劉昭が補注した志。九卿のうち太常・光禄勲・衛尉・太僕・廷尉・大鴻臚を記す。
太常
- 卿一人(中二千石)。礼儀・祭祀を掌り、祭祀に先立ち礼儀を奏し、行事の際は天子を賛導する。博士の選試の可否、大射・養老・大喪の礼儀を奏する。毎月晦日前に陵廟を巡察する。属吏は員吏八十五人(四科十二・佐五・仮佐十三・百石十五・騎吏九・学事十六・守学事等)。
- 丞一人(比千石)。行礼・祭祀の小事と署内の事務を総べる。
- 太史令一人(六百石)。天時・星暦を掌り、年末に新年の暦を奏する。国の祭祀・喪・婚姻の吉日・時節・禁忌を掌り、瑞応・災異を記録する(太史待詔三十七人の内訳:治暦六・亀卜三・廬宅三・日時四・易筮三・典穣二・籍氏許氏典昌氏各三・嘉法請雨解事各二・医二)。丞一人。明堂及霊台丞一人(二百石、霊台待詔四十二人が日月星気・風・気・晷景・鍾律を候う)。
- 博士祭酒一人(六百石、旧称僕射、中興後に祭酒と改称)。博士十四人(比六百石)――易は施・孟・梁丘・京氏の四家、尚書は欧陽・大小夏侯氏の三家、詩は魯・斉・韓氏の三家、礼は大小戴氏の二家、春秋は公羊厳・顔氏の二家。弟子の教育と疑事への応答を掌る(本秩四百石、宣帝が秩を増した)。桓帝延熹二年に秘書監を置いた。
- 太祝令一人(六百石)。祭祀での祝読・神の迎送を掌る(員吏四十一人、祝人・宰二百四十二人・屠者六十人等)。丞一人(小神の祝を掌る)。
- 太宰令一人(六百石)。祭器・供物を掌る(明堂丞一人・員吏四十二人・宰二百四十二人・屠者七十三人・衛士十五人)。丞一人。
- 大予楽令一人(六百石)。伎楽を掌り、祭祀・大饗の奏楽と陳序を司る(員吏二十五人、楽人八佾舞三百八十人。舞人は秩二千石から六百石の吏の子・関内侯から五大夫の子で、適子・身長五尺以上・十二歳から三十歳の容姿端正な者から選ぶ)。丞一人。
- 高廟令一人(六百石、丞なし)。世祖廟令一人(六百石、高廟と同じ)。歴代帝陵の陵園令各一人(六百石)と丞・校長各一人(校長は兵戎・盗賊を主る)。陵食官令各一人(六百石、望晦・時節の祭祀を掌る)。
- 太常の属官として、旧に祠祀令一人があったが後に少府に転属、太卜令(六百石)も後に太史に併合された。中興以来省かれた官が十官あった(太宰・均官・都水・雍・大祝の五畤各一尉等)。
光祿勲
- 卿一人(中二千石)。宮殿門戸の宿衛、郎の署謁を典り、郎が交代で戟を執って宿衛するのを取り締まり、徳行を考課して進退させる。郊祀では三献を掌る(員吏四十四人、衛士八十一人)。丞一人(比千石)。
- 五官中郎将一人(比二千石、五官郎を主る)以下、五官中郎(比六百石、五十歳以上の者が属す)・五官侍郎(比四百石)・五官郎中(比三百石)、いずれも定員なし。郎官はみな交代で宿衛し、出行では車騎に従う(議郎のみ宿直しない)。
- 左中郎将(左署郎を主る)、右中郎将(右署郎を主る)も同様に中郎・侍郎・郎中を各定員なしで置く。
- 虎賁中郎将一人(比二千石、虎賁の宿衛を主る。武帝の期門を平帝が虎賁と改称した。定員はないが多いときは千五百人に及ぶ。王莽が古の勇士孟賁にちなんで命名したという説あり)。左右僕射・左右陛長各一人(比六百石。僕射は虎賁郎の習射を、陛長は虎賁の殿中宿直を主る)。虎賁中郎・侍郎・郎中、節従虎賁(比二百石)も置く。晋の荀綽注によれば虎賁諸郎は父の死後に子が代わるのが漢制であった。
- 羽林中郎将一人(比二千石、羽林郎を主る。漢末には東・北・南の中郎将が置かれ、董卓・盧植・曹操がそれぞれ任じた)。羽林郎(比三百石、漢陽・隴西・安定・北地・上郡・西河の六郡の良家から補す。武帝が狩猟の供として殿陛の岩下に宿したことから「巌郎」と号したという)。羽林左監一人(六百石、羽林左騎を主る)・丞一人。羽林右監一人(六百石、羽林右騎を主る)・丞一人。
- 奉車都尉(比二千石、定員なし、御乗輿車を掌る)・駙馬都尉(比二千石、定員なし、駙馬を掌る)・騎都尉(比二千石、定員なし、羽林騎を監督する)。
- 光禄大夫(比二千石、定員なし)以下、大夫・議郎は顧問応対を掌り常職を持たず、詔命により使いする。諸侯王の嗣子の喪には光禄大夫が弔問する。太中大夫(千石)・中散大夫(六百石)・諫議大夫(六百石)はいずれも定員なし(光禄大夫はもと中大夫と称し、武帝元狩五年に諫大夫を置いたのが起こり。世祖中興以後、諫議大夫と改称。太中・中散・諫議・光禄の四等は古の天子の下大夫に相当)。
- 議郎(六百石、定員なし、五十人程度)。
- 謁者僕射一人(比千石、謁者台の長として天子出行時の奉引を主る)。常侍謁者五人(比六百石、殿上の時節・威儀を主る)。謁者三十人(給事謁者は四百石、灌謁者郎中は比三百石。賓客の応接・上章の取次、大夫以上の喪の弔問を掌る。定員は本来七十人だが中興後は三十人)。新任は灌謁者として一年務め、その後給事謁者となる。
- 光禄勲に属する諸官(五官将から羽林右監までの七署、奉車都尉から謁者まで)を注記。かつて左右曹(秩二千石)が殿中で尚書の奏事を受けたが、世祖はこれを省き小黄門郎に受けさせた。車駕出行時は黄門郎が請室令を兼ね、先導・警蹕を務めた。
衞尉
- 卿一人(中二千石)。宮門の衛士と宮中の巡邏を掌る(員吏四十一人、衛士六十人)。丞一人(比千石)。
- 公車司馬令一人(六百石)。宮南闕門を掌り、吏民の上章・四方の貢献・徴召された者の受付を担う(員吏四十人)。丞・尉各一人(丞は避諱に通じた者を選び違法を糾し、尉は闕門の兵禁を主る)。
- 南宮衛士令一人(六百石、南宮衛士を掌る。員吏九十五人・衛士五百三十七人)。丞一人。北宮衛士令一人(六百石、北宮衛士を掌る。員吏七十二人・衛士四百七十二人)。丞一人。
- 左右都候各一人(六百石。剣戟を持つ士が宮内を巡邏し、天子の命による収監・拷問を主る。右都候は員吏二十二人・衛士四百十六人、左都候は員吏二十八人・衛士三百八十三人)。丞各一人。
- 宮掖門ごとに司馬一人(比千石)――南宮南屯司馬は平城門を、北宮蒼龍司馬は東門を、玄武司馬は玄武門を、北屯司馬は北門を、北宮朱雀司馬は南掖門を、東明司馬は東門を、朔平司馬は北門を、それぞれ掌る(各門の員吏・衛士数を注記。合計七門)。宮中に居る者はみな門の所属で口籍を持ち、宮名二字を刻んだ鉄印文符で出入りを照合した。
- 衛尉の属官のうち、中興後に旅賁令・衛士一人丞が省かれた。
太僕
- 卿一人(中二千石)。車馬を掌り、天子出行時は鹵簿を奏し大駕では自ら馭を執る(員吏七十人)。丞一人(比千石)。
- 考工令一人(六百石、兵器・弓弩・刀鎧の製作を主り、完成品は執金吾を経て武庫に納める。織綬などの雑工も掌る。員吏百九人)。左右丞各一人。
- 車府令一人(六百石、乗輿の諸車を主る。員吏二十四人)。丞一人。
- 未央厩令一人(六百石、乗輿及び厩中の諸馬を主る。員吏七十人・卒騶二十人)。長楽厩丞一人(員吏十五人・卒騶二十人。苜蓿苑の官田も守る)。
- かつて六厩(大厩・未央・家馬の三令、各五丞一尉、及び車府・路軨・騎馬・駿馬の四令丞。晋灼注によれば馬万匹を主った)があったが、中興後は一厩に整理され、のち左駿令廏を置いて乗輿御馬を別に主らせた。牧師苑(河西六郡に分置し馬を養う)も中興後は省かれ、漢陽の流馬苑のみ羽林郎が監領した(安帝漢安元年七月、承華厩令〔六百石〕を置く)。
廷尉
- 卿一人(中二千石。応劭注:兵獄同制のため廷尉と称する)。獄を平め、上奏された判断を掌る。郡国が疑罪を讞(審議)した場合はこれを処断して報告する(員吏百四十人)。正・左監各一人(前漢には左右監があったが世祖が右監を省き左監とした)。左平一人(六百石、詔獄の裁定を掌る)。
- 武帝以後に置かれた中都官獄二十六所(各に令長)は世祖中興後すべて省かれ、廷尉と雒陽のみに詔獄が残った。蔡質『漢儀』の逸話――正月元旦の朝賀で光禄勲劉嘉・廷尉趙世が病を理由に朝賀を欠いたところ、髙賜がこれを弾劾し、廷尉が趙世の罪を治め、河南尹が劉嘉の罪を治めることとなったという。
大鴻臚
- 卿一人(中二千石)。諸侯及び四方の帰義蛮夷を掌り、郊廟の礼で賛導し、行事を諸司に命じる。諸王入朝時の郊迎の礼儀、郡国上計吏の四方からの来朝も所管する(員吏五十五人)。和帝永元十年、大匠応順の上言(百郡の計吏が粗末な旅宿で衣装を損なう窮状を訴え、鄭の子産の故事を引いて改善を求めた)により、和帝がこれを容れて館舎を新設した。
- 皇子が王に封ぜられる際の印綬授与、諸侯・諸侯嗣子・四方夷狄の封拝も掌り、王の薨去には弔使を遣わし、嗣子の拝命にも関与する。丞一人(比千石)。
- 大行令一人(六百石、諸郎を主る。員吏四十人)。丞一人。治礼郎四十七人(斎祠・儐賛・九賓の応対を主る。盧植注:大行郎も謁者と同様、容貌の良否で選ばれる)。
- 大鴻臚は秦の典属国を承け、四方夷狄の朝貢・侍子を別に主っていたが、成帝の代に大鴻臚に併合された。中興後は駅官・別火の二令丞(別火獄令は改火の事を主る)、郡邸長丞が省かれ、郎が郡邸を治めるのみとなった。